プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生179」
桃香がたどたどしいながらも要所を押さえた演奏を終え、秋子が明るく爽やかなクラリネットの音色を響かせて
いる時、小川は相川に話し掛けた。
「もうすぐぼくの演奏が始まりますが、みんなのように長い演奏はできません。中学生が縦笛を演奏するように
楽譜に書かれているメロディーを2回吹くだけです。ただ、その前に少し話をしたいので...」
「わかりました。ああ、やっと私の妻がやって来ました。家事を片付けて来ることになっていたのですが、
時間がかかったんだな。おーい、遅かったじゃないか。深美ちゃんのソロ演奏は終わったし、おかあさんとの
共演ももうすぐ終わってしまう」
「ごめんなさい。深美ちゃんと桃香ちゃんに何を贈ろうかと迷っていたら、あっという間に1時間が経過して
しまって...」
演奏を終えて、横で話を聞いていた深美が話に加わった。
「おばさん、そんな気を使わなくていいのに。時間があれば、おとうさんの演奏の後で演奏させていただくわ。
シューベルトの即興曲のどれかを」
「そういう心遣いは有難いけど、時間が...。それでは、そろそろ、小川さん、始めて下さい」
「わかりました。今日は、深美を励ますために時間を作っていただきありがとうございました。深美はまだまだ
学ばなければならないことがあるのですが、しばらくすると人前で演奏する、つまりプロの演奏家になるわけで
ピアノを始めて10年も経たないうちにこのような技術を身につけられたのはひとえにアユミさんのおかげ
だと思います。またアユミさんのご主人にもいろいろお世話になりました。相川さんには、ロンドンに留学した
ばかりの深美を家庭に招いていただき心の支えになっていただきました。娘からもお礼の言葉がありましたが、
私からも大川さんご夫婦、相川さんご夫婦には心からのお礼を申し上げます。さて、話は変わりますが、今日の
音楽会はいかがでしたでしょうか。演奏が素晴らしければなおよいのですが、何かを伝えようとこのように
人々の面前で自分の日頃から培った技を披露するのは有意義なことだと思います。だから、今から私も演奏
させていただきますが、たとえそれの出来が良くなくてもそれまでの努力を認めてあげて下さい。日々精進を
重ねていても結果をうまく出せない人もたくさんいます。世の中に天才と言われる人はそんなに多くないと
思います。だからこういった集まりではみんなで賑やかに楽しく過ごすということが大切だと思います。
こういった音楽会は約20年前にアユミさんと秋子のコンサートを私が手伝ったのが始まりなのですが、
これからもこういった楽しい音楽会を続けて行けたらと祈念しています。今から「春の日の花と輝く」を
お聴きいただきますが、この曲はその最初のコンサートで秋子が私のために心を込めて演奏してくれた曲なの
です。20年経過した今、今度は私から永久の愛をみなさまの面前で秋子に誓うためにこの曲をクラリネットで
演奏したいと思います。これからも私の家族、秋子、深美、桃香をよろしくお願いします。
なお、時間がないので私の演奏に続いて深美のシューベルトの即興曲の演奏をお聴きいただきます。では...」
深美がシューベルトの即興曲Op.90-2の演奏を終えると、みんながピアノの周りに集まった。
「どうだった。楽しかった」
「ええ、言葉で言い表せないくらい。でも、今度、こうして演奏するのは...」
「それはこの前にも言ったけど、年に一度はこちらに帰って来てライヴをするんじゃなかったかな」
「そうね。アユミ先生が言われるように年に一度はお里帰りして、近況報告はしないとね」
「わかったわ、それじゃー名残惜しいけれど、そろそろ空港に行きましょうか」