プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生181」
小川、相川、大川の3人はいつも都立多摩図書館前で待ち合わせたが、今回からアユミが加わることになったので、
小川と大川が住むアパートの近くの喫茶店でいつもの講義をすることになった。席に着くとアユミの夫、大川が
話し始めた。
「今日は気を使ってもらってすみません。アユミは相川さんのピアノの隠れファンなのですが、講義も聴きたいと
言っておりましたところ、前回から小川さんが自作の小説を披露していると聞きまして、もうこれは何があっても
行かなくてはと思うようになったと...。そうだな」
「ええ、そうよ。相川さんは期待を裏切らないと思うけど、小川さんはどうかしら」
「ぼくは...」
「ふふふ、小川さん、余り気にしないでいいのよ。だって今日はひとつのことを始めたということに意義があるわけで
今日ここで結果を出せと言っているわけではないのよ。まずスタートラインに立って走り出す。これから先の
頑張りようで、いずれ結果が出て来るとは思うけど、今日はひとつのことを始めたということをみんなに示すだけで
いいと思うわ。それじゃあ、相川さん、進めて下さい」
「わかりました。では、この前の時にも話したように、まず、小川さんが自作の小説を、タイトルは「蒼いノクターン」
でよろしいですか、そうですか、読んでいただく。そのあとそれに対して私がコメントし、それから私の講義に移る
という順にやって行こうと思います。では、小川さんからお願いします」
「それでは、「蒼いノクターン」をお聴きいただきますが、正直なところ量的にみなさんの満足できるものではないと
思います。それでも時間の許す限り取り組んだものなので、今の私が精一杯書いたものと言えると思います。
『私が中学生の頃の一番の楽しみは、ラジオから流れ出る音楽だったのかもしれない。確かに友人と他府県にまで
行く旅行をしたり、映画を見に行ったりしてわくわくする時を過ごすことはあった。が、ラジオほど身近なもので
なかったし、第一それほど裕福でない中学生の私にとっては旅行や映画は多くても月に1回しかできず、決して
日頃の楽しみにはなり得なかった。ラジオは短波放送で海外の放送を聞いたり深夜放送でDJの楽しい話を聴くことも
できたが、私は専ら、音楽をリクエストする番組や高音質で外国の音楽を聴かせてくれるFM放送を好んで聴いた。
その日の午後も2学期の中間テストが終わって開放的な気分になって、自宅での昼食を終えると自分の携帯ラジオを
持ち出して近くの公園に行きラジオをつけた。その日は丁度、FM放送でポール・モーリアの特集をするということを
新聞で見て知っていたので、その放送局にダイアルを合わせた。丁度特集が始まったところで、今日は、「恋はみずいろ」
「エーゲ海の真珠」「涙のトッカータ」「真珠とり」「蒼いノクターン」「オリーブの首飾り」がかかるとアナウンサーが
話していた。私はいつものように藤棚の下にあるベンチに寝そべると耳の側にラジオを置いて、うたた寝を始めた。
すると声がした。「こんなところでうたた寝をしていると風邪を引くわよ。だってもう10月なんだから...。あっ、
この曲いい曲ね。なんという曲なの」私が起き直って、声がした方を見ると同級生の絵美子だった。私は、思いがけない
ことにしばらく顔を赤くして彼女を見ていたが、ばつが悪くなってそこを去ろうとする彼女に、「ああ、これは
「蒼いノクターン」だよ」と一言いうのが、精一杯だった。そのままそこを去ろうとする彼女をしばらく見ていたが、
何かを思い出したように私のところに戻って来た彼女は、「そうだ、私、ピアノを習っているの。この曲の楽譜があれば、
弾いてみたいんだけれど...。そんな、無理言っても駄目よね」と言うと彼女は今度は振り返らずに私の視界から消えた。』
というのを何とか書いてみたのですが、いかがでしたでしょうか」
「いくつか期待を持たせるところがいいと思います。ラジオ好きの少年がピアノを習っている少女と仲がよくなり
どうなっていくのか。いろんなイージーリスニングの曲を紹介してもらえるのではというのもあります。それに何より
この、「私」がどうなるのかというのも楽しみです。出だしとしては申し分ないと思いますが、大川さんはどう思います」
「ぼくたちは、文章が書ける人を尊敬しています。批評なんてとても。なあ、そうだろ」
「ええ、でもこの「私」というのが、小川さんの分身なのか全くの想像で生まれた人物なのか気になるところだわ」
「まあ、それは勘弁願いましょう」
「やっぱりね」