プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生192」

小川が自宅に戻ろうと腰を上げたところ、玄関のドアが開いてアユミと娘の裕美が入って来た。
「あら、小川さんが来ているの。そこで桃香ちゃんに話を聞いたけど、秋子が過労でダウンしたそうね。
 そうだ、きっと小川さんところではまだ夕ごはんどうするか決めてないだろうから、家で一緒にすき焼きでも
 食べない。そうねー、1時間程したら準備ができるから、小川さん、秋子と桃香ちゃんを連れて来たら。
 私に話があるんだったら、その時に聞くわ」
「わかりました」

「そういうわけで、休日はぼくが家事をしようと思うのですが、そうすると今までやってきたことを少し我慢した方が
 いいと思うんです」
「そうかしら、それは小説を書くことや山登りを回避するための口実じゃないの」
「ち、違いますよ。現に秋子は過労で体調を崩して病院に行っているし...。これは休日の家事を秋子にさせていたからで、
 休日も仲間と音楽に取り組んでいる彼女の負担を軽減しないと、いつかはもっとひどいことに...」
「あなた、小川さんがあんなことを言って、私たちが楽しみにしている相川さんの講義とあなたが楽しみにしている
 高尾山でのトレッキングをやめさせようとしているわ。この調子だと小説もできませんと言い兼ねないわ。
 あなた、なにか気の利いたことを言ってあげたら」
「それでは...、これはぼくの山登りが好きな友人が言っていたことなんです。彼は40才になるまで腹芸をするのに
 ぴったりのお腹をしていたのですが、ある時、時間が出来たのでひとりで上高地に出掛けることにしました。
 当時あった夜行急行とバスを乗り継いで早朝に上高地入りした彼は涸沢のできるだけ近くまで行ってみようと明神、
 徳沢を経由して横尾まで行ったのですが、方向音痴の彼は横尾大橋を渡りそこねて槍ヶ岳方面へと歩いたのでした。
 槍沢ロッジで、ここはどこですかと訊いて自分が間違っていたことに気付いたのですが、今から涸沢に行くわけにも
 行かず、おでん定食を食べて帰途に着くことにしました。それでも次に繋がるものがないものかと近くにある
 広場に行ったところ、そこに単眼鏡が置いてあるのに気付きました。なにげなく彼がそれを覗いてみると槍の穂先が
 見えました。よく見てみるとそこには何人かの人がいて、山頂目指して一所懸命登っていました。澄み切った大気のため
 晴天を背景にした槍の穂先は何か神々しいものに感じられ、彼は瞬時にしてあれを極めないと生きている甲斐がないと
 思いました。翌日から、彼は筋力トレーニングを始めたのでしたが、ただ腹筋をしていただけでは山登りをするだけの
 体力をするだけの体力はつかないと私に助言を求めて来ました。私は、10ヶ月程で、ハードな登山に耐えられるように
 なるためには、少なくとも腹筋と腿上げを毎日1時間ずつくらいして本番前に近くにある起伏の激しい山に数回登って
 おくことが必要だろうとアドバイスしました。それから1ヶ月程すると彼の体型は引き締まり、2ヶ月すると30才
 そこそこの人のように俊敏な動きができるようになりました。もちろん彼は翌年自分の足で雨中ではありましたが、
 槍ヶ岳山頂に登ることができたのでした。それからしばらくして彼に、ハードだっただろうになぜそのようなことが
 できたのかと尋ねると彼は、そりゃー、辛い仕事とちがって、山登りは楽しいことなんだから、そのための体力作りは
 楽しむために必要なものと割り切ってやればなんでもないことなんだよと言っていました。小川さんも、楽しみと考えるか
 課せられた仕事と考えるかで小説を書く時や山登りをする時の気持ちも変わって来るでしょう。楽しみと考えるのなら、
 大きな負担にならないでしょうが...」
「あなた、なかなかよかったわ。秋子、あなたどう思う」
「そうね、仕事なら緊張感を持って対峙しないといけないから大変だけど趣味なら。でも私の場合、リーダーを仰せ付け
 られているから...」
「でも、小川さんは別にリーダーでもなんでもないんだから、気楽にやればいいのよ。わかったわね」
「そ、そうですよね、気楽にやりますよ。ははは」