プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生194」
小川は、以前よく利用した喫茶店で30分だけ最近手に入れた「ドンビー父子」を読もうと、自宅を
午前5時30分に出た。
<久しぶりにあの喫茶店で読書をすると思うと心が弾むが、その反面、なんでここまでしないといけないのか
と言いたくもなるなあ。でもいつも午前6時過ぎには家を出ているのだから、これくらいの時間には出ないと
いつものことができなくなる。午前7時30分には仕事を始めるのだから。まあ仕事の内容を濃くして
30分早く終えるようにすればなんとかなるだろう。最悪の場合には、昼休みの時間を切り詰めるさ>
小川が久しぶりに訪れた喫茶店に入ると、入口近くで3人のタクシー運転手が関西弁で話していた。
「昨日の最終、買うておけばよかったワ。予想では当たってたんや」
「いやいやそれより来年の阪神の話を聞かしてーや」
「君たち、何をいうてるのん。こんな困難な時代やからこそ、いにしえの文学を読んだり、音楽を聴いたりして...」
「それでどないするねん」
「そ、それはやな...。これから考えるわ」
スキンヘッドの運転手が赤面して話すのを小川は横目で見ながら、いつも利用する席に着いた。
小川はさっそく、「ドンビー父子」を読み始めたが、ポール・ドンビー氏の姉のルイザが登場したところで、
しおりを入れた。
<6ページ目だけれど、切りがいいからここまでにしておこう。まだ時間があるから、ざっと全体を見ておこうか。
2段で本文が523ページまである。上下だと1000ページほどあるのかな。でも比較的大きな活字だから、
読みづらくはない。その後に訳注があって、おお、主な登場人物のことが少し書いてある。これは大いに助かる。
そう言えば、「バーナビー・ラッジ」には、登場人物の簡単な紹介が書かれたしおりが付いていた。
ポール・ドンビー氏の息子が誕生したばかりで、ドンビー氏が独り言を言っている。「ドンビー氏はおよそ48才
だった。息子はおよそ48分だった」なんて書かれてある。こういうのを読むと関西で生まれ育ったぼくにとっては、
10円のことを10万円と言うおばさんに似ている気がして、ニヤリとしてしまうのだが。
ドンビー氏の独り言の内容は、生まれたばかりの息子の名前を自分と同じポール・ドンビーにしようとか
会社のことについて語っているが、独善的な人物に見受けられる。出産直後の妻に対して優しい心遣いもないようだ。
ドンビー氏には6年前に生まれた娘のフローレンスがいるようだが、父親の優しさの感じられない言葉に
戸惑っているようだ。医師(主治医(家庭外科医)と名医パーカー・ヘッブス博士)から妻の状態が良くないと
言われても、冷ややかで杓子定規な反応しか示さない。あらすじを読んだことがあるが、このドンビー氏が
どのようにして人間らしさを取り戻して行くかが、この物語の中心テーマなのだろう。休日で時間があるのなら、
ここで居眠りをして、ディケンズ先生に夢の中に登場していただくのだが、おっと、もうこんな時間だ。
でも、来てよかった。こうして読み始めれば、寸暇を惜しんで読むようになるから、以外と早く読み終えられる
かもしれない>
その夜、夢に現れたディケンズ先生は今までにない程、饒舌だった。
「やあ、目出たい。こんな嬉しいことはない。提灯行列と万国旗の飾り付けができたら、クラッカーをならして、
シャンパンを開けて乾杯だ。そうそう、料理は一万人分用意してあるから、好きなだけ食べてくれ。よーし、
では、かんぱーい!! そういうことで、これからも私の本をよろしく」
「わかりました。こちらこそよろしくお願いします」