プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生8」

渋谷のファーストフード店で昼食を取ったふたりは、しばらく渋谷を
逍遥することにした。
「それにしてもきみがぼくを訪ねてくれるとは思わなかったよ」
「何も言わないで突然現れたので、きっとびっくりなさったでしょう。
 でも、卒業してから電話嫌いの小川さんは電話1本もくれないし、
 手紙も最近は月に1度もらえるかどうか。年末にお会いした時に、
 その時も手紙で連絡をとりあったんだったけれど、土曜日の朝に
 この喫茶店にいると言われていたので、昨日の仕事を終えてから、
 京都から夜行バスに乗って東京に来て、朝食を済ませてから
 あなたの前に現れたの」
「なんて言ったらいいのか。ぼくは別に魅力がある男だと思わないし、
 きみに贅沢させてあげられる訳でもないし…」
「わたしはあなたと一緒にいるだけで楽しいの。また本の話を聞かせて
 もらえるかしら。さっきは何を読んでいたの」
「ディケンズ先生の「リトル・ドリット」なんだけど」
「わたしそれなら読んだことがあるわ。リトル・ドリットの叔父さんが
 クラリネット吹きで興味深い人物だと、大学時代の英文科の友人から
 聞いたので…。わたし、クラリネットをやっているのよ」
「一度、きみの演奏を聞きたいな…。ほんとに残念だけど、今から仕事
 なんだ。また手紙になるけれど、近いうちに連絡するよ。それじゃあ」
「連絡待ってるわ。お仕事頑張ってね」

その夜、眠りにつくと夢の中にディケンズ先生が出て来た。
「やっと、私の出番だ。陽気に行きましょう。やあ、小川君、青春を
 謳歌しているようだね」
「先生、こんな貧乏をしていて謳歌できるものですか。それに彼女との
 間にはだだっ広い空間が存在します」
「そうかな、隔てられているから、欲求がすべて満たされないからこそ、
 渇望が生じる。青春には渇望がつきものだ。すべてが満たされたら、
 次は何を求めればよいのか迷うことだろう。きみは彼女から愛されて
 いるし、決してつらい日々ではないと思うのだが。確か、秋子さんと
 言ったね。わたしの本を読んでくれるなんて、ほんとにいい子だと
 思うよ。ではまた」