プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生198」

小川は無事に高尾山口に戻って来れたのでほっとしたが、意外なことに大川が苦痛で顔を歪めていたので驚いた。
相川はいつものように余裕の笑顔を見せていた。
「大丈夫ですか、大川さん。でも当然のことかもしれない。高尾山といっても険しい坂道もあったし、さらに
 40キロの荷物を背負うのだから、膝に大きな負担がかからないはずはありません。最初から大川さんの負担を
 減らすことを考えるべきでした。大川さんはぼくたちのためにいろいろ気を使って下さって有難かったのですが、
 大川さんが家まで辿り着けるか心配になってきました」
「でも、午後2時だから、まだまだ時間があります。とりあえずそこに喫茶店があるから入りましょう」

「それにしても、このリュックの中に何が入っているのですか。テントはぼくが持つとして、食料は今食べて
 残ったらここに置いて帰りませんか」
「いいえ、小川さんがテントを持って下さるのなら、食料は手提げ袋に入れ替えて、私が持ちましょう。あとは
 衣服や軽いものばかりだから、なんとか背負えるでしょう。どうです、大川さん」
「おふたりとも、気を使っていただいて...。そう、これなら大丈夫です。でも、お二人にはご迷惑を...」
「気にしないで下さい。これから先も、大川さんと相川さんにはしばしばお世話になることと思います。そのことを
 考えると、今少しお役に立てたと思うと...」
「でも、今回こうして山で話ができたのはよかったんじゃないかな。喫茶店で講義するのとはちょっと違ってて。
 大川さんは少し張り切りすぎたところもあるけれど、いつものような固さがなくて自然に私に話し掛けてくれたし。
 やっぱり、山はいいですね。またいつかどこかの山に登ることにしましょう」
「ぼくたちも賛成です。ねえ、大川さん」
「もちろん」

小川は久しぶりの山登りで疲労感があったので、帰宅後すぐに風呂に入り食事を済ませると秋子に、先に寝ると言って、
書斎に行き布団を敷いて横になった。しばらくすると布団で身体が温められ心地よい疲労感が全身にひろがり、
やがてディケンズ先生が待つ夢の世界へ引き込まれて行った。
「小川君、どうだったかな、登山は」
「先生、登山というのはもっと高い山に登ることを言うんで、今日のは軽登山、ハイキングと言うべきものでしょう」
「でも、大川
はへたばっていたが...」
「張り切りすぎたんですよ。でもおかげで楽しい一時でした。ところで先生、小説の結末についてどう考えられますか」
「そうだな、結末にしやすいのは登場人物の死ということになろうが、そうするとどうしても暗い小説になってしまう。
 主人公が亡くなって物語が終わる「骨董屋」や「二都物語」がそうであるように。結婚や目的の達成を結末にすると
 ハッピーエンドとなるから、これは明るい小説ということになるだろう。「ニコラス・ニクルビー」「マーティン・
 チャズルウィット」「デヴィッド・コパフィールド」「荒涼館」「リトル・ドリット」「我らが共通の友」はいずれも
 主人公の結婚を結末としている。そう書いたらきっと小川君から反論があるだろう、「マーティン・チャズルウィット」
 のどこがハッピーエンドなのかと。他に悪人の破滅でエンドとなる「オリヴァー・トゥイスト」「バーナビー・ラッジ」
 「ハード・タイムズ」もある。「大いなる遺産」のように主人公が成長して余韻を残しながら終わる小説もある。
 というわけで私の小説は結末があるわけだが、「ピクウィック・クラブ」の最後は突然主人公がクラブを解散して終わり
 だから、結末と言えるかどうか」
「ぼくが知りたいのは、先生が結末を最初に考えておられたかどうかなんですが...」
「それはどちらとも言えないな。というのも書き進めて行くうちに登場人物に情が移ってストーリーを変えることもある
 だろうし、友人たちの勧めで極端な考え方が排除されることもある。大切なことはそういうことがあっても、破綻が
 生じないようにすることなんだ」
「よーく、わかりました」