プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生202」

週末に秋子と桃香が実家に帰ることになったので、小川は土曜日はいつもの喫茶店でじっくり「ドンビー父子」を読み、日曜日の
午後は大川と相川を自宅に招待してのんびりと話をするということに決めた。朝一番の新幹線で帰郷するふたりを見送った
小川は自宅に帰らずにすぐにいつもの喫茶店に向かった。小川がいつも陣取るトイレの前のテーブルが空いていたので、
入口が見える椅子に腰掛けて「ドンビー父子」を開いた。
<最近はここでゆっくり読めないが、どうなるか待ち遠しくて自宅で少しずつ読んで来た。冷徹なポール・ドンビー氏の独善に
 つき合わされる、フローレンス、息子のポール・ドンビー、ウォルター・ゲイなんかが気の毒でしょうがない。フローレンスは
 女の子で跡取りになれないというだけで自分の子供でないような扱いだ。男の子のポールが生まれたので、フローレンスと違う
 肉親としての愛情をポールに注ぎ込むのかと思っていたら、ピプチン女史という老女にきびしい躾をさせたり、プリンパー博士の
 寄宿学校の先生に大学生に教えるような教育をさせている。普通の親なら子供の成長を見守るのだろうが、見守るどころか、
 学校で難しいことばかりひたすら教えるものだから、もともと体力がなかったポールは身体を衰弱させて行く。第16章で
 この生まれてすぐに母親を失い愛情が欠落した父親によって育てられた(厳しい生活を強いられた)幼子は姉のフローレンス
 に見守られ、速やかなる河に乗って大海に注ぎ込まれるように幼い命を落としてしまう。可哀想に。その上、この社長は
 社員にもいじわるばかりしている。その最たるものは、ウォルター・ゲイの西インド諸島バルバドスへの派遣だ。恐らく
 ウォルターはフローレンスと同年齢だから10代半ばなんだろう。そんな若い将来性のある社員に「バルバドスの会計事務所の
 下級職に人がいるそうだ」と言って左遷するのだから。ウォルターが自分の娘と仲良くして心の支えとなっているのに警戒して
 いるようにも思えるし、どこまでこのポール・ドンビーという人は極悪非道の人なのだろう。ディケンズ先生の小説は勧善懲悪
 ものが多いが、主人公が悪人、といっても社会的には高い地位にある人なのだが、というのはこの小説だけじゃないかな>
小川が瞑想に耽っていると、入口の近くで関西弁で話す声が聞こえた。
「きみたち、今日は「イギリス小説の金字塔」と言われるディケンズの「大いなる遺産」について解説しよう」
「ディケンズって、イギリス人のか。日本人やから日本人が書いた小説を読んでたら、ええんとちゃうのん」
「そんなこと言うてるから、外国の人と仲良くやっていけなくなるんや。むかしの人は外国の文化に対して謙虚やったから、
 外国の小説を文学全集なんかで読んでええとこを吸収することができたんやで」
「そうなんか、それやったら、ぼくたち、謹聴するで、きこきこ」

<やっぱりこの本は文庫本を読むようにはいかないな。まあじっくり読むさ。でもディケンズ先生が言われていた、マック
 スティンガー夫人というのは、ウォルター・ゲイのおじさんで船具商のソロモン・ギルズの親友、ネッド・カトル船長の
 下宿のおばさんのようだな。アレキサンダー君の他にもたくさんの子供がいるようだが、これからどんな活躍をするのだろう。
 それからトゥーツ氏も亡くなったポールがせんぱいと言って親しくしていたプリンパー博士の生徒で、両親から莫大な遺産を
 相続したようだ。ポールが仲良くしていたディオゲネスという犬をフローレンスに届けたことからフローレンスに好意を持った
 ようだが...。そんなことを考えていたら眠たくなって来た。そろそろマックスティンガー夫人が夢の中に出て来るかな...>

小川が眠りにつくと、ディケンズ先生がフローレンスを連れて現れた。
「小川君、フローレンスが寂しがっているので、何か言ってやってくれないか」
「そう言えば、第19章でフローレンスのボーイフレンドのウォルター・ゲイが「御曹司号」で旅立ったのでしたね。フローレンス、
 元気を出して。ディケンズ先生は正義の味方で弱者の味方だから、君を悪いようにしないよ。それに女の子には特に優しいからね」
「そうかしら、「骨董屋」のネルや「オリヴァ・トゥイスト」のナンシーそれから「デイヴィッド・コパフィールド」のドーラは
 若くして命を失っているわ。それより私、ウォルターのことが気になって仕方がないの」
「よく聞くんだ、フローレンス。ディケンズ先生は良識の塊だ。だから地道に生きているウォルターや君のような登場人物を
 ぞんざいに扱ったりしない。安心して」
「わかったわ。小川さんの言うことを信じるわ。握手しましょ」
「小川君、よくやった。じゃあ、この次はマックスティンガー夫人を連れて来るから...」
「どうすればいいんですか」
「カトル船長のように打ちのめされないようにするんだ」
「......」