プチ小説「たこちゃんの改心」

ハート、コラソン、ヘルツというのは心のことだけれど、心の付く熟語というのはなぜか心に響くと
日頃からぼくは思っていたんだ。特に決心、向上心、真心、無心それから改心なんかは心のあるべき姿を表す言葉
だから、ぼくは常々そういった心持ちを大切にして生きていこうと思っているんだ。尊敬する英国の偉大な文豪、
チャールズ・ディケンズはこうした人間の美しい心の動きを作品にしているように思う。「ピクウィック・クラブ」
のピクウィック氏が仲間を集めることを決心したのも「大いなる遺産」のピップがパトロンの援助のお陰とは言え
向上心から教育を受けようと思ったのも人生に大きな転機を齎すことになったし、「二都物語」のルーシー・マネットや
シドニー・カートンが実行した愛する人のための献身というのは真心というものを感じる。「リトル・ドリット」の
エイミー・ドリットが無心でアーサー・クレナムを愛するのも心を動かされる。でもディケンズの作品の中でよく
知られているのは、頑固で自分の考えに固執して苦しい立場にある人がふとしたことが切っ掛けとなって改心する
というストーリーだろう。「クリスマス・キャロル」のスクルージ、「デイヴィッド・コパフィールド」の
ベッツィ・トロットウッド(主人公の大叔母)それから「大いなる遺産」のピップの改心というのは何度読んでも、
守銭奴や意固地なおばさんや独り善がりな若者が人間らしさを取り戻し心を改めた瞬間、ぼくは心がじーんと熱くなって
眉毛が山型になり目尻が下がって口元が緩んでくるんだ。そうしたすぐれた作品に毎日のように触れているぼく
だけれど、一向に人生が開けて来ないというのはなにか理由があるのかもしれない。駅前で客待ちをしている
スキンヘッドのタクシー運転手は、改心とは無縁のようだが...、でも暇つぶしに訊いてみよう。「こんにちは」
「オウ ブエノスディアス レフェリシートデトドコラソン アシペンセエンミコラソン」「いえいえ、いいこと
だったら、どうぞ声に出して言ってください」「そうかそれやったら、遠慮なく言わしてもらうわ。おめでとさん」
「な、なにがめでたいんでしょうか」「決まっているやんか、ほらほら、なんちゅーたかな、船場はんの小説...」
「「こんにちは、ディケンズ先生」船場弘章著 近代文藝社刊のことですか」「そうや、その小説が、全国の20の
公立図書館だけやなくて、15の大学図書館のホームページに掲載されてて(2012年4月30日現在)、
ディケンズ愛好家のためのサイト、ディケンズ・フェロウシップのホームページには船場はんが書いたプチ小説や
プチ朗読用台本が掲載されとるということやないか」「確かにそうなんですが...」「なんか文句あるのん」「いいえ、
そういうことではないんですが、売り上げが一向に伸びないので...」「ええか、よう聞きや。人間欲を出したら、
それでおしまいや。地道にやってるのが大事なんやで。仮に100万部売れて、1億円の金が手に入ったとしても...。
そうやな、そうしたらもう少しマシな格好もできるかもしれんし、たまごばっかりの食生活というのもようなるかも
しれんな」「まあ、正直なところそれも大切なことですが...。売れないことには次の一手が打てないのですよ。せめて
1万部くらい売れれば、次の作品なんかも出版社が検討してくれるでしょうから」「そうかいな。ようわかったで。
せいぜい宣伝しとくわ。そやそや、わしなあ、船場はんに感化されて、最近、そこの茶店に来るタクシー仲間に
ディケンズはんの宣伝をしとるんや」「それはどうも。今年生誕200年でもありますし、ディケンズという文豪に
少しでも多くの人が興味を持たれたら、おこぼれに与れるかもしれませんね」「情けないこといいなはんな。ええか、
男はここやと言うときに馬力を出さなあかんのや。それが今なんやでー。そやから、今からうさぎとびとリヤカー
ごっこをして身体を鍛えるでー」「今、ですか」「そうやでー、昔の人はええこと言うとるで、思い立ったら吉日
というの知っとるやろ」そう言いながら、鼻田さんがうさぎ跳びをはじめたので、それに続いたのだった。ぶつぶつぶつ...。