プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生210」

小川が目覚めて辺りを見回すとすぐ隣のテーブルにアユミとその夫がいて、マーラーの交響曲第3番の終楽章に
じっと耳を傾けていた。小川は途中で声を掛けて感動の頂点に達しようとしているふたりを現実の世界へと
引き戻すのが躊躇われた。それで小川は曲が終わってしばらくして、ふたりに声を掛けた。
「どうでしたか、今の演奏よかったでしょ」
「やあ、小川さん、お目覚めになられたんですね。気持ちよさそうに眠られていたので、声を掛けられなかったんですよ。
 今のは確か、アバドとウィーン・フィルの演奏ですね」
「そうです。アバドはいろいろな楽団と共演していますが、ウィーン・フィルとの共演は特にすばらしいです。
 ブラームスの交響曲第1番、チャイコフスキーの悲愴交響曲なんていいですね。アバドはマーラーの交響曲では第7番をシカゴ
 交響楽団と録音していますが、こちらも聴きごたえがあります。ウィーン・フィルはこの曲の終楽章やベートーヴェンの
 田園交響曲やブルックナーの交響曲第7番の第1、第2楽章などですばらしい演奏を...」
「そうそう、ほんとにウィーン・フィルの弦はすばらしいと思います。ところで小川さん、ちょっと相談に乗っていただきたい
 のですが...」
「それはきっとベンジャミンさんとどのように休日を過ごすかということですね」
「そうなんです。彼は日本の文化をもっと知りたいと言っていました。どんなことを彼に紹介したら喜んでもらえるかなと」
「そうですね。大雑把に分けると2つの種類のものがあると思います。純粋な日本の文化と西洋文化と日本文化が交流して
 その結果できた文化とが、大川さんも私も、前者は苦手でむしろ後者が得意とするところです。芸術だけに関して言うなら、
 前者としては、俳句、和歌、短歌、歌舞伎、小唄、民謡、落語、和楽、文楽などでしょうか。後者としては、外国文学そのもの、
 外国文学との接点になる翻訳、外国音楽の鑑賞、外国の音楽との接点となる個人あるいは団体での演奏ということになるでしょうか。
 もちろんこの他にも建造物や工芸や着物などにも我が国独自の文化がありますが、われわれにはガイドブック以上の知識はないと
 言えるでしょう。だから自分の言葉でわかりやすく説明できる、音楽や文学のことを紹介すればよいと思います」
「あなた、他にもあるでしょ」
「そ、そうだったな。プロレスとか、大道芸とかかな。ぐえーっ」
「そうじゃないわよ。あなた、山登りが好きなんでしょ。一緒に高尾山に登ったりすれば、1日楽しく過ごせるわ。高尾山なら、
 裕美や音弥も行けるだろうし」
「まあ、なにより、こちらからの押しつけばかりでは、彼も楽しくないでしょう。最初の会で、彼がどんなことを知りたいのか、
 活動的なのがいいのかじっとしているのがいいのかなどを尋ねておいた方がいいでしょう」
「そうですね。食べず嫌いなところもあるから、彼から希望があれば、日本の古典芸能を鑑賞したり、すもうを見に行くのも
 いいかもしれない」
「ところで、小川さん、小説の方は捗っていますか」
「......」
「あんた、こんなところでぐうぐう寝てる暇があったら...」
「まあまあ、抑えて抑えて。これはヒントになるかわかりませんが、今、小川さんが書かれている小説の中に、『クリスマス・
 キャロル』が出てきましたが、それだったら、あの有名なスクルージのような人物を登場させて、ディケンズの意思を小説に
 反映させるというのも面白いかもしれません。他にマーレーという人物はちょい役ですが、小川さんの小説の中でスクルージと
 対峙させるというのも面白いかもしれませんね。どちらも個性が強い人物ですからね」
「なるほど、それはいいかもしれませんね」