プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生211」

アユミとその夫に大いなる刺激を受けて帰宅した小川は、玄関の鍵を開けて入る時に秋子が既に帰っていることに気が付いた。
「おや、今日は確か午後8時までアンサンブルの練習すると言っていたはずなんだが...。なにか話したいことがあるのかな。
 やあ、今日はいつもより...。わかった。やっぱり、話したいことがあるんだね。相談に乗ろうか」
「小川さんの帰りを待っていたのよ。お話を聞いてもらえるとうれしいわ。実は、勤務している音大の有志を募って私たちの
 愛好会はスタートしたんだけれど、なかなか思いどおりに行かなくて...」
「ふうん、いつも元気に出掛けて行くから、君の悩みに気付かなかったよ」
「みんなでひとつのこと、基礎的な練習のことだけど、をしなくなって、曲目をグループごとに練習するようになると、だんだん
 まとまりがなくなってきたと言うか。前にも言ったけれど室内楽のアンサンブルというのは組合せがいろいろあって、ある曲目、
 例えば、シューベルトの八重奏曲をしようとすると、ヴァイオリン2名、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、クラリネット、
 ファゴット、ホルン各1名の編成だけれど、これと全く同じ編成の曲というのは私が知っている限りないの。それで他は同じで
 ヴァイオリンが1名だけになる、ベートーヴェンの七重奏曲を一緒に練習することになるわけだけれど、ベートーヴェンの曲の
 練習をする時はヴァイオリニストのひとりはなにもすることがなくて、本を読んだり手紙を書いたりしている。最初はみんな
 やる気いっぱいで頑張っていたんだけれど、基礎的なことができるようになって一つの曲の練習を始めるとアンサンブルの
 構成員から外れた人たちが退屈に過ごすことが多くなってしまって。そんな時に私がまとめ役をするようにとリーダーを
 仰せつかったんだけれど」
「練習するスタジオがあまり大きくないから、同時に別の練習ができないという理由もあるんだろうなあ。今の話を聞いて
 ぼくは思うんだけれど、時間割を作って、その時間に練習に出てもらうというふうにすれば、短い時間を有効に使えるん
 じゃないかな。今まではみんな皆勤賞で頑張って来たけれど、これからは時間割の通りに来てもらえばいい。もちろん
 交代で休む日を作ってもいい。その日は休んでもいいし、それぞれ自宅で練習してもいいし、他のところでアンサンブルの
 練習をしてもいい」
「ふふ、小川さんもそう思う。でも、それだけでは...」
「やっぱり。......。ちょっと、書斎で」
「そうね、ディケンズ先生の意見を聞いてみるのもいいかもしれないわね」
「じゃあ、行って来るよ」

小川が書斎で横になって眠りにつくと、夢の中にディケンズ先生が現れた。
「やあ、小川君、「ドンビー父子」を楽しんでいるかな」
「今日は先生の小説のことではなくて、相談に乗ってほしいんです」
「そうか、そうか。最近は小川君、心配事がなくなって、私のことをなんとも思わなくなったと少し気落ちしていたんだが...。
 わたしでよければ、なんなりと言ってくれたまえ」
「実は、秋子さんがアンサンブルのリーダーになって頑張っているんですけど、最近、メンバーとうまく行かなくなっている
 みたいで...。それでなにかいい方法はないかと」
「そうだなー、こういう時は、私だったら、アユミさんとその夫に相談するだろう。彼らは秋子さんが勤める大学の卒業生でも
 あるから、アンサンブルのメンバーにとけ込むことも容易くできるだろう。基礎的なことができているんだったら、
 アユミさんのピアノ伴奏で、それはどこか他のところでやってもいいだろう、好きな曲を練習したらいいし、アンサンブルの
 オリジナル曲を作ってくれと依頼したら、大川は喜んで何十曲でも作曲するだろう。ベンジャミンも入れると、よりハイレベル
 なことも可能になるから、今度のハイキングの時に3人に相談するといい」
「ベンジャミンさんも何か楽器をされるのですか」
「まあ、それはふたを開けるまでのお楽しみということで...。その時のことを考えるとなんだか楽しくなって来た。そうそう、
 昔はいろいろ、入場、退場で楽しんでもらったが、今日もそれを見てもらおうと思う。ピクウィック、用意はできたかな」
「みなさんお揃いですよ。いいですか、みなさん、私の指揮に合わせて、「春の日の花と輝く」を演奏して下さい。いっちー、
 にー、さん、どうぞ」
「そら、君もこの曲のことを覚えているだろう。秋子さんを掛け替えのない人だと思っているんだったら、ここはいいとこ
 見せないと。じゃあ、私は行くよ」
そう言いながら。ディケンズ先生は、万来の拍手を受けながら、演奏を終えたピクウィック氏と共に退場した。

「あら、早かったわね。どうだった」
小川は、秋子を抱きしめると言った。
「先生は、掛け替えのない女性を不幸にするなと言っていた。だから、君にいつまでも輝いていてもらおうと思う。でも、少し
 待ってほしい。来週の日曜日までには...」
「わかったわ。でも、待ち遠しいわ」