プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生213」
アユミとその夫が帰った後、小川は書斎に籠って会社の仕事を始めた。
<次の日曜日はほとんど家に持ち帰って残業はできないだろうし、秋子さんが、今日の晩ご飯はまかせてと言って
くれたので、少しでも仕事を済ませておこう。でも、ここにくるとディケンズ先生の小説から熱いまなざしが
寄せられているようでどうしてもかつて熱中して読んだ本に目が行ってしまう。最近、いろいろあって、
「ドンビー父子」をあまり読み進めることができなかったけれどようやく終わりに近づいた、ドンビー氏は
イーディスと結婚したにはしたが、自分でどうにもならないものだから、腹心のジェームズ・カーカーに
取り入ってもらおうとしてやっかいなことになったようだ。カーカーとイーディスがふたりで駆け落ち
したらしい。でもイーディスという女性はどんな男性に対しても冷淡で、カーカーに対しても辛く当たっている。
カーカーは財産も名誉も投げ出してイーディスと新しい生活を始めようと目論んだが果たせずに、すっかり意気
消沈してしまい朦朧として線路に...。支配人のカーカーを失ったドンビー商会はどうなってしまうんだろう。
一方フローレンスとウォルターの間には子供ができたようだ。子は鎹というし、ウォルターに夫の責任だけでなく
父親としての自覚も持たせることができたわけだから、これからふたりは末永く仕合わせにやっていくことだろう。
後はドンビー氏とフローレンスがうまくやっていけるかが問題なのだが...。そんなことを考えていたら、
睡魔が襲って来た>
小川が眠りにつくと、夢の中にフローレンスが現れた。
「小川さんのおかげでウォルターと幸福な日々が続いているわ。ありがとう」
「それはよかった。でも、ぼくが夢の中でフローレンスにアドバイスしたからうまく行ったというのは...」
「あんまり真面目に考えなくていいのよ。女性から感謝の気持ちを示されたら、素直に受け止めるものよ」
「わかった。気をつけるよ。ところで「ドンビー父子」ももうすぐ終わりになるけれど、お父さんとうまくやって
いけるといいね。応援しているよ」
「私、精一杯頑張って、お父さんに人間らしい心を取り戻してもらうつもりよ。今まで住んでいたお屋敷は見る影も
なくなってしまったけれど、おとうさんと私の家族のためにささやかでいいから共棲できる家を持つのよ。
それから先はきっとうまくいくわ。小さな喜びでもみんなの力でうんと大きな喜びにするのよ。笑いの絶えない家に
できると思うわ。あっ、先生」
「やあ、フローレンス、小川君とすっかり意気投合したようだね」
「先生、小川さんって本当にいい人。だからまた夢の中でお話しできたら...」
「そうだな...。でも、小川君が「ドンビー父子」をもう一度読むということは余り考えられないな」
「先生...」
「どう思うね、小川君は」
「そうですね。確かにこの物語は、フローレンス以外は地味な人か傲慢な性格の人でフローレンスばかりが輝いている
ような気がします。カーカーやイーディスは善人とは言えないが、懲らしめ甲斐のない人物と言えます。カトル船長や
トゥーツ氏はユーモラスな登場人物と言えますが...」
「やはり、余り楽しんでもらえなかったかな」
「いえいえ、そんなことはありません。タイトルのドンビー氏とその息子を主人公として捕えるなら発展性がないと
言えますが、フローレンスが主人公と考えて彼女が成長して行くのをそっと見守ると考えると面白い小説になる
と思います。そういう意味でもぼくはこの小説を「フローレンス・ドンビー」という題にしてほしかった。でも、
それが無理なことはよくわかっていますので、「ドンビー父子」のフローレンスに脚光が当たるようにと
願っています」
「小川さんが言う通りになると、うれしいわ。またお会いしましょ」