プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生215」

小川はディケンズ先生と出逢って四半世紀以上になるが、起きる間際に夢の中に現れるということは極めてまれであった。
「小川君、そんなにのんびりしていていいのかね。今日はアユミさん一家と高尾山に登るんだろ」
「あっ、ディケンズ先生、でも心配しなくていいですよ。今日は大川さんとアユミさんがホストファミリーに
 なっていて、ぼくはクラリネットを持って行くだけでいいと言われているんです。それにしてもベンジャミンさんは
 どんな楽器を演奏するのかな。木管楽器や金管楽器を演奏するようには思えないし、打楽器や鍵盤楽器をするようにも
 思えない。やっぱり弦楽器となるのだろうが、どちらかというときゃしゃなベンジャミンさんはチェロやコントラバス
 は似合わない気がする。ヴィオラは地味な楽器だからベンジャミンさんの性格に合うかどうか...。どうしたんです、
 先生」
「私がわざわざこうして夢に出て来たということの意味が小川君にわかるかな」
「そりゃー、相川さんの親友であり、大川さんやぼくに英国への架け橋になってくださる、やさしく、律儀で、諧謔に富んだ
 英国人ベンジャミンさんと接する際の傾向と対策を教示していただけるのでは...」
「私はベンジャミンは誰とでもそつなくつき合いができる人物と思っているので、その点は心配してないが...」
「じゃあ、なぜ」
「小川君が30分で出発の準備をするのは難しいんじゃないかと思って...。大切な人とのつき合いの基本は時間厳守だよ」
「そうですね、おっしゃるとおりです」

ディケンズ先生に起床を促されて、小川が朝目覚めたのは午前7時30分をかなり過ぎてからだった。
「日曜日の朝はみんな寝だめをするので、起きるのが遅くなる。起こしてくれるだろうなんて考えなければよかったな。
 でもディケンズ先生のお陰で...。さあ急がないと、アユミさんたちを待たせることになってしまう。ああ、秋子さん」
「あら、小川さん、今起きたところなの。お弁当はアユミさんが作ってくれると言っていたから、今日はいつもどおり
 8時までゆっくりしようと思っていたけれど...。やっぱり、起こしてあげればよかったわね」
「気にすることないさ。仕度にそんなに時間はかからない。前日、ちゃんと用意しておいたから。ほら」
「でも、ディケンズ先生が夢の中で、ベンジャミンさんが楽器をすると言われたからと言って、小川さんがマイ楽器を
 ハイキングに持って行かなくてもいいと思うんだけれど。本来クラリネットは室内楽の楽器だから、直射日光が当たる
 ようなところでの使用はしないでね。私が昔買ったリュック式のキャリングバッグがあるから、それを使えば持ち運びに
 苦労はしないけれど」
「ほんとにこれはいいねえ。40半ばなのでちょっと恥ずかしいけれど...。そうそう、今日のために、「春の日の花と輝く」
 「ロンドンデリー・エア」「グリーンスリーブス」を暗譜で吹けるようにしておいたから、人通りの少ない木蔭で
 ベンジャミンさんに披露しようと思うんだ。あれ、もう来たのかな」
「私がアユミさんたちのお相手をしているから、小川さんは出発の準備して...」
「わかった。なるべく早くするよ」

「やあ、お待たせしました。でも、ご主人、すごい荷物ですね」
「おはようございます、小川さん。今日は、アユミの手料理を味わっていただこうとたくさんお持ちしました。朝早くから
 アユミがこさえたので楽しみにしていて下さい」
「そうですか、楽しみだなあ。ところで、そこのキーボードのようなものは...」
「キーボードです。アユミは屋外で演奏する時にはいつもこれなんですよ。私もリコーダーを持って来ました」
「大川さんにも、ベンジャミンさんが楽器をされるかもしれないとは言いましたが、何をされるかわからないし...」
「いえいえ、ディケンズ先生のおっしゃることに間違いはないです。それにもしされなくても、音楽でお持て成しと
 いうのも...」
「あなた、でもそのトランポリンは余計じゃない。参道でトランポリンをやったら警察の方がやって来ると思うわ。
 ここに置いて行ったら...」
「何を言っているんだ。参道でするからいけないんで、どこかでこっそりやればいいんだよ。ねえ、小川さん」
「まあ、今日のところは持って行くだけにして、どうしても必要であれば、迷惑がかからないように広いところでやれば
 いいんじゃないですか。それよりもこの前も持参された、喫茶用具とコンロなんかは...」
「まあ、これは私の山登りの楽しみですので持って行かせて下さい」
「それにしてもこの前の荷物プラスアユミさんの手料理、キーボード、リコーダーとなると...」
「小川さん、そこのところは心配しなくていいの。私もキーボードと料理は持つし、子供たちにも協力してもらうから。
 ね。裕美に音弥」
「はーい、わかりました」