プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生222」
夕食後、小川は使命感からすぐに書斎に行き机に座って挨拶文を考えようとしたが、昼間の疲れの波が押し寄せて来て
その波に引かれるようにディケンズ先生が待つ、夢の世界に入って行った。
「やあ、小川君、今日はいい日じゃなかったかね」
「あっ、ディケンズ先生。先生がおっしゃるとおり、ベンジャミンさんやアユミさんたちと楽しい時間が過ごせました。
それに秋子さんにも明るい展開を約束できたし。おや、今日はピクウィック氏もご一緒ですか。」
「そうなんだ、私一人だとどうしても言い忘れたりするんで、ピクウィックに代わりにしゃべらせたりするんだよ」
「もしかして、それがヒントなんですか」
「いつもながら小川君は鋭いが、意味をはき違えないようにしてほしい」
「と言いますと」
「挨拶文を部分的に他の人に読ませるのではなく、自分で心を込めて読み上げることは一番大切なことなので
このことはどんなことがあってもきちんとするべきだ。でも単調な口調で延々と続き、聞いている人を退屈にさせるなら、
アンサンブルのメンバーの心を掴むのは難しいだろう」
「では、どうすれば」
「話は変るが、小川君は私の書いた小説のうち、翻訳ではあるが、「ニコラス・ニクルビー」「ハード・タイムズ」以外は
読んでくれているが、これから先は私の小説をただ読むだけでなく、部分的に吟味する、つまり英文学者の先生たちが
しておられるようなことをやってみてはどうだろうか」
「分析ですか...」
「そう言うと味気ないものになってしまうが、たとえば私の小説には、ここにいるピクウィック氏(「ピクウィック・クラブ」)
の他、ピップ(「大いなる遺産」)、デイヴィッド(「デイヴィッド・コパフィールド」)、エスタ(「荒涼館」)、
エイミー(「リトル・ドリット」)、オリヴァー(「オリヴァー・トゥイスト」)、スクルージ(「クリスマス・キャロル」)、
シドニー・カートン(「二都物語」)、ベラ・ウィルファー(「我らが共通の友」)、フローレンス(「ドンビー父子」)など、
もちろん他にもたくさんいるが、魅力ある人物をたくさん登場させている。「ニコラス・ニクルビー」は翻訳物が入手できれば
是非読んでほしいが、「ハード・タイムズ」は「骨董屋」「マーティン・チャズルウィット」のように、小川君が
気に入るような主役級の人物は登場しない。となるとやはり私としては小川君とこれからもつき合いをしていくためには...」
「そうか、新訳が出る度に新たな気持でその本を読み、小説を読みながら魅力的な人物の言動を見出して行くという作業をするわけ
ですね」
「そうだ、そのとおりだ。で、挨拶文の話に戻るが、そこに私の登場人物の会話や地の文などをうまく割り込ませるという
ことをしてみてはどうか、ということなんだ」
「例えば、どんなのがいいでしょう」
「私は一から自分で考えろという薄情者ではないから、ピクウィックに自分の小説から2、3引用してもらおうと思う」
「小川さん、こんなのはどうですか。「人生の生涯のうちで、自分の帽子を追いかけている瞬間ほど、滑稽な当惑をおぼえ、
慈悲深い同情に出逢わぬときはない。多くの冷静さ、ある独特な判断力が帽子をつかまえるのには必要である。あわてすぎては
いけない。さもないと、それを踏みつけてしまうからである。余り先まわりをしてはいけない。さもないと、それをすっかり
見失ってしまうからである」これは第4章にあるのですが、自分の帽子を突風で吹き飛ばされ、それを追っかけている私を
描写しながら、先生がユーモラスな筆致で人生訓を披露するという感じで、私が気に入っている場面なのですが...」
「そうだ、ここはこの小説の楽しい場面のひとつだが、これをどんなふうに挨拶文に割り込ませるかと言うと、どうだ
ピクウィック」