プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生226」

小川弘士様
ロンドンの夏は毎年日本のそれに比べると過ごしやすいのですが、今年も日本ではきっと毎日のように真夏日が続き、
おつき合いするのに骨が折れるものとなっていることでしょう。ベンジャミンが5月に初めて小川さんや大川さんに
お会いしてもうすぐ3ヶ月になりますが、彼は持ち前の明るさでみなさんにうまく溶け込んでいることと思います。
最近受け取ったベンジャミンからの手紙には、小川さん、秋子さん、大川さん、アユミさんと共にアンサンブルの
メンバーの指導をしていて、楽しくやっていると書かれてありました。最初、ベンジャミンは東京の観光地の案内を期待
していたようですが、もともと彼は名古屋にある音大の教授ですので、ボランティアで友人と一緒に音大のOGを指導する
というのは彼に最も充実した時間を過ごさせるということになったのだと思います。メンバーの方々の実力もついてきたので、
人前で演奏ができるようになるのには2年はかかると言われていましたが、ベンジャミンとの親睦会が終了するまでには、
つまり来年の春までにはヴィオロンでライヴができるようにしようとみんな頑張っていると書かれてありました。
もともとベンジャミンには、私の友人に熱狂的なディケンズファンがいて、余りに熱狂的なので、文豪ディケンズが夢に
出て来て自分の著作について語ったり、人生相談に乗るようになったと話したところ、彼は目を丸くして、「ワタシも
ディケンズ先生のご神託を仰ぎたい」と言ったのが、彼が小川さんのことを知ったきっかけです。私の前でお二人が
会われる前に何度か新幹線の車内でお会いしたことがあると言われていましたが、それはもしかしたらディケンズ先生の
お力がお二人を結びつけたのかもしれません。きっと今はメンバーの指導に一所懸命で、ベンジャミンは小川さんと話す
機会が少ないでしょう。でも彼がディケンズについて語りだしたら、彼の話を彼の気が済むまで聴いていただくように
よろしくお願いします。今はベンジャミンや大川さんたちとアンサンブルの指導でお忙しく、小川さんは小説を書くことは
難しいかと思います。私が手紙を書く時に小説に関する四方山話(小説愛好家の小説論と言っていただけるといいのですが)
と自作小説を添付しますので、お楽しみいただければ幸いです。
12月には深美ちゃんがロンドンでコンサートをすると聞いています。いわば今までの成果が問われるわけですが、きっと
冷静に難局を乗り越えられることでしょう。いや深美ちゃんは心からベートーヴェンやモーツァルトを愛しているので、
むしろ演奏を楽しんで聴衆を感動させることでしょう。もちろん私も末席で演奏を聴かせていただきますので、どのような
演奏だったかを報告させていただきます。
今回の海外赴任は1年で済みそうなので、来春にはベンジャミンと入れ代わって皆さんの前に現れる予定です。もちろん
その後も不定期にベンジャミンはみなさんのところへやってきますのでご安心を。では暑い日が続きますが、
お身体をご自愛ください。
                                相川 隆司

今回は、主役を食う脇役ないしは悪役についてお話をしたいと思います。ディケンズの小説でいえば、「ピクウィック・クラブ」
のサム・ウェラーや「ディヴィッド・コパフィールド」のウィルキンソン・ミコーバやユライヤ・ヒープのように主役以上に
目立つ存在で物語の意外な展開を可能にさせたり読者の怒りの対象となって物語に深みを持たせたり、読者の感情をおおいに
刺激する人物がいます。これらの印象深い人物を小説中で縦横無尽に走らせれば小説を面白くすることは間違いありませんが、
なかなか存在感のある登場人物を最初から創造することは困難を極めます。またあまりにたくさん興味深い人物が出て来ると
ストーリー展開自体が遅くなりますし、やはり両輪が安定して走行する小説が理想的な小説と言えるのかもしれません。
それでは、いつものように自作小説をご覧下さい。
『翌朝、石山はいつもの通り、500メートルダッシュを終えて自分の家へと帰る途中、「魔笛」の中で歌われる夜の女王の
アリア「復讐の心は地獄のように胸に燃え」を3回歌おうとしたが、課長に呼び止められた。いつものように早朝にもかかわらず
河川敷にやってきた石山のファンもたくさんいた。「石山君少ししゃべらせてくれ。聴衆の皆さん、おはようございます」
「おはようございます」「今日、こうして私がふたたび皆様の前に現れたのは、昨日のおわびのためです。私は石山君のように
ある時はテノールの甘い声を出したかと思えば、昨日のように裏声でコロラトゥーラの声を出したりはできません。ですが、
腹芸では誰にも負けません」そう言って、課長は、あっという間に上半身裸になって腹部をくねらせ始めた。とても現実の出来事と
思えず、石山はしばらく茫然自失状態だったが、すぐに気を取り直して、夜の女王のアリアをいつものように歌い始めた。
それを聞いた課長はそれまでの倍の早さで身をくねらせたが、限界を感じてすぐにやめた。「石山君、私の負けだ。明日からは
元の生活に戻ってもいいよ」「それじゃあ、長らく会えないでいた、俊子さんに手紙でも出そうかな」』