プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生229」
小川はマスターのところに行き、とりあえずコーヒーを注文した。
<メンデルスゾーンのスコットランド交響曲やヴァイオリン協奏曲は創作意欲を喚起する気がする。ベートーヴェンの曲の
多くは心が熱くなっての曲にのめり込んでしまうので小説を書くどころでなくなる。モーツァルトの曲は明るい気持になって
よい文章が書ける気がするが、(ごくまれに陰影を見せることがあるが)感情の起伏があまりないので、それが文章に反映される
気がする。メンデルスゾーンや他のロマン派の作曲家、シューマン、シューベルト、ショパン、ブラームスの音楽を中心に聞いて、
ベートーヴェンとモーツァルトの音楽を必要に応じて聴く。これを繰り返して、クラシック音楽を聴いて行くと無限に創作意欲が
泉のごとくに湧き出て来て、然程の苦労もなしに面白い小説が出来上がる気もするが、それは無い物ねだりというものだ。
というのもほとんどの創作する時間は自宅の書斎にあるささやかな装置で100枚ほどのレコードを聴くことになるのだから。
ここでの時間を有効に使うためには、最初の部分を書いてついでに簡単な筋も書いておくのがいいだろう>
小川は席を立って、もう一度マスターのところに行き、ブラームスの交響曲第1番をリクエストした。
<この曲は、ぼくがクラシック音楽を生涯通じて聞く切っ掛けとなった曲だ。混沌とした不安におののく状態で始まった曲が、
第2楽章で夜明けを迎え、第3楽章でたくさんの仲間と出会い、終楽章で充実した人生を開花させ胸はって堂々と歩いて行く、
この曲を初めて聴いた時は高校を出てすぐの頃で将来の進路が見えずどうしようかと悩んでいたのだが、この曲のおかげで
すぐに結果を求めるのではなく、日々の業績の積み重なって、やがて開花するのだと思えるようになった。性急に結果を
求めなくなったんだ。でも周りからおっとりしすぎと言われないでもないのだが...。
さあ、始まった。小説の続きを書くことにしようか>
『以前から、一度じっくり話したいと思っていたんだ。隣に住む大学生のことだけど。ぼくが子供の頃はよく話を聞いてくれたが、
今は忙しそうなので無理かな。浪人してようやく入学できましたと、おかあさんに言っていた。あれから2年になるから、
いまは3回生なんだ。おかあさんに、法学部の学生なのに小説ばかり読んでいて、おまけに3回生になってからはスペイン語の
クラスで文法とリーダーを勉強していると言っていた。これは少しゆとりができたからなんじゃないかな。それからぼくが文学
青年になってしまったのは、ディケンズによるところが大きいんですよとも言っていた。その理由を是非訊いてみたい。
木造長屋の隣同士だけれど、近くここは取り壊されるという話も出ているから、早いに越したことはない。今日は思い切って
声を掛けてみよう。「こんにちは、誰かいませんか」「おや、はじめくんじゃないか」「そうです。ぼくのこと覚えていて
くれたんですね」「そりゃー、隣同士でしばしば顔を合わすんだから、忘れることはないさ。でもこうして訪ねて来てくれた
のは、訳がありそうだね。ここで立ち話もなんだから家に入らないか。君もよく知っている通りのおんぼろ長屋だが掃除は
きちんとしている。今日は両親が仕事で留守だから、夕飯を作らないといけないけれど、1時間くらいなら話を聞いてあげるよ」
正直人(まさなおと)さん(これが隣に住む大学生のファーストネームでした)。勝手口から入ると台所を通り抜けて、自分の
机がある部屋へとぼくを連れていってくれた。「はじめくんのところと同じ間取りだと思うけど、六畳と四畳半の和室に両親と
3人で暮らすわけだから、プライバシーなんてものはほとんどない。両親が帰って来たら、話どころではなくなるから...」
「そうですね。実は、正直人さんが以前ディケンズについていて話していたのを覚えているんです」「君もディケンズが
好きなのかな」とつぜん隣の住人の顔つきが柔和になった気がしたので、ぼくは余すところなく話をすることができました。
「この前、友達から一緒に『クリスマス・キャロル』の台本を作ろうと言われて、途方に暮れているんです。だって
ディケンズの本を1冊も読んだことがないし、文庫本を見るとぎっしり文字が詰まっていて近寄りがたい気がするし...」
「そうか、君は最近知り合ったかわいい女の子にいいところを見せたいわけだ」「な、なんで、それがわかるの」そう言って、
ぼくは思わず椅子からお尻を浮かせて、右手の人差し指の腹を頬に当てたのでした』
<やはり大作曲家の音楽を立派な再生装置で聴くと、筆が進む。とりあえずこれを相川さんに手紙と一緒に送ることにしよう。
もうすぐブラームスの交響曲第1番の終楽章が終わるから、残りのコーヒーを啜って店を出ることにしよう>