プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生231」
小川は会社の用事で午後から神田に行った帰りに、久しぶりに風光書房を訪ねることにした。小川が、
こんにちはと声を掛けると、店主が目を丸くして応えた。
「やあ、小川さん、お久しぶりですね。お元気そうで何よりです」
「ありがとうございます。ぼくはここに来るといろんな文学のお話しが聞けるので、楽しみにしているんです」
「でも、小川さんはディケンズをはじめとする19世紀イギリス文学に興味をお持ちで、私は、フランス、
ドイツ、ロシア文学に興味があるものだから、ご期待にそえるかどうか」
「ずっと前に話された、マラルメやヴェルレーヌの話はとてもついていけなかったのですが、意識の流れの
ヘルマン・ブロッホの話は興味深く、あれからすぐにこちらで購入した「ウェルギリウスの死」は読みました。
ですが、まだ「夢遊の人々」は読んでいません。なにせ2段ぎっしりが700ページも続くのですから。ツァイクは
全集を買ってしまったので、いつかは読破したいと思います。ドイツ・オーストリア文学では、シュティフターも
興味があるのですが...」
「小川さんは以前私がシュティフターに興味があると言ったから、そう言ってくださるんでしょうね」
「確かシュティフターは、ブルックナーの音楽のようにオーストリアの自然を描写しているとか仰っていましたね」
「ええ、そんなこともお話ししましたね。そうだ、小川さんは、「こわれがめ」を知っていますか」
「えーっと、確かドイツの劇作家クライストの喜劇でしたね。残念ながら、まだ読んでいませんが」
「クライストは、フルトヴェングラーに多くの霊感を与えたと言われています」
「指揮者に影響を与えた劇というのがどんなものかすごく興味があります。もしここに在庫があるのなら、
購入したいと思います」
「それなら、ここに中央公論社の「世界の文学新集43」があります。それから、今度はロシア文学になりますが」
「ぼくは学生時代にトルストイとドストエフスキーの主な作品は読んだので...」
「いいえ、あまり知られていないのですが、レスコフという作家がいてこれが物凄い描写をするんです。特に
「ムツェンスク郡のマクベス夫人」というのがあって、これが...」
店主が両手で軽くグーパーしながらデモーニッシュな微笑みを見せて言ったので、小川は思わず身をのけ反らせた。
「そうですか、そんなにすごいのなら、一度読んでみたいですね」
「でも、夜中はやめといたほうがいいですよ。よろしかったら、レスコフの別の作品が読める集英社の世界文学全集53を
読んでみられては」
「そうですね、それも購入しましょう。ところで、ディケンズ先生の本はどうですか」
「小川さんは、前から「ニコラス・ニクルビー」を求めておられますが、なかなか入りませんね。どこかの公立図書館で
借りられるのがよいのかもしれませんね」
「前みたいにピクウィック氏に似た方が現れて、贈り物をしてくれるといいのですが...。ぼくは遅読なので、長編小説を
図書館で借りて読むというのはまず不可能ということになるんです。それに腰を落ち着けて読みたいし...」
「わかりました。ピクウィック氏に似た方が現れて「ニコラス・ニクルビー」を売りたいと言われたら、すぐに小川さんに
連絡しますよ。じゃあ、いつものように本は自宅にお送りしましょうか」
「そうだなー、ついでにこの集英社の世界短篇文学全集1、2イギリス文学20世紀というのも送っていただこうかしら」
「わかりました。いつもありがとうございます」