プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生234」

小川が大川に、これからはせっせと小説を書くと誓った翌朝、小川は少し早くいつもの喫茶店に来た。
<ここだと少し早く起きさえすれば、30分くらいは小説が書ける。さあ、始めるか。おや>
小川が何気なく入口に目をやると、スキンヘッドのタクシー運転手が仲間を連れて店に入って来た。
「きみたち、今日はディケンズの小説中でも一番面白いと言われとる、「デイヴィッド・コパフィールド」
 について講義したるから、よう聞きや」
「わしら、すぐお客さん乗せなあかんから、手短に頼むで」
「そら、わしも同じや。ところでこの本を見てちょうだい」
「うーんと「憑かれた男」と書いてあるね」
「そうこれは、ディケンズのクリスマスもののなかのひとつで「デイヴィッド・コパフィールド」が書かれる
 直前に出版された中編小説なんや」
「クリスマスものやったら、きっと楽しい小説やろね。それに1848年ちゅーたら、ディケンズは36才
 くらいやから、絶好調の時やったんちゃうの」
「そう思うやろ、ところがそーと違うんや。「ドンビー父子」を出版した後で、苦悩の時代だったと言われとるんや」
「文豪と言われ、後世に名を残した偉人でも苦悩の時期はあったんやな」
「いーや、むしろディケンズという人は多くの苦悩を抱えていたんやけども、それでも自分の心を奮い立たせて頑張ったん
 やで」
「で、その後はどうなったん」
「この本の解説の中で、この「憑かれた男」を出版することで、高まった苦悩を解消する一助になった
 というようなことが書かれとるから、そうなんやろ」
「あんたまだその本全部読んでへんのかいな」
「なんやとー、文句あるのん。そういうわけで、この本を書くことで、ディケンズは心の闇から解放されたわけやけど...。
 残念やなー、「デイヴィッド・コパフィールド」の中身までよう行かんかった。今日はここまでや」
「どこが「デイヴィッド・コパフィールド」の講義やねんと突っ込みたいところやけど、そのディケンズさんの
 ええ話聞いたから許したるわ。誰もが苦悩を持っとる。窮地で奮い立つかどうかが人生を決めるんやちゅー話を」
「あんたもそう思うやろ。ほな、おしごと、おしごと」
3人のタクシー運転手が店から退出すると小川は徐に原稿用紙を取り出した。
<スキンヘッドのタクシー運転手が言うように、逆境に陥った時に自分を奮い立たせて立ち直り、さらに上を目指すことが
 人生行路を実りあるものにするために必要なことだが、小説を書くことや音楽の芸術性を高めるためには素養がなければ
 無理なような気もして来た。相川さんが何の苦労もなく楽しい小説をすらすら書くことや秋子や娘二人がぼくと違って
 なんの苦もなく演奏技術を向上させて行くのを見ていると素質のないものは何もしない方がいいのかなと思ってしまう。
 いやいやきっと知らないところで努力はしているのだろうが...>

小川は出勤前だと言うのに居眠りを始めた。しばらくすると夢の中にディケンズ先生が現れた。
「小川君、創作活動のことで悩んでいるようだね」
「そうなんです。中学生の頃、縦笛が同級生のようにうまく吹けなくて苦悩したりした時のことや高校生の時にどうしても
 数学ができなくて頭を抱えていた時のことを思い出しました」
「で、それからどうなったのかな」
「縦笛は高校受験の内申書で音楽の評価が低いと合格が難しくなると思い、下手ながらも地道にやることにしました。
 数学はやはりどうにもならないので、まじめに出席をしてなんとかすれすれで卒業できました」
「今、振り返って見てその時のことをどのように思う」
「そうだなー、縦笛も数学もとても合格点をもらえるようなレベルに達していなかったのに、遮二無二頑張っていると
 気がついたらいつの間にかどうにかこうにかそれをやり過ごしていた...」
「そうだ、その通りだ。わしも30代半ばの頃そうだったし、そのころがあったからこそ円熟期にいい作品がたくさん
 残せたと思っているよ。窮地に奮い立つ。要は諦めないで、立ち向かって行くということが大切なんだ。」