プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生241」
深美がロンドンから帰ってくる前日、小川は久しぶりに名曲喫茶ヴィオロンを訪ねた。
<ここで今までノートに記載してあることを読んで、深美にどんなことを言えばいいかを考えよう...。
と思ったが、あそこにアユミさんがいる。おっ、今日はご主人だけでなく、ふたりの子供も一緒だ>
「大川さん、次の土曜日にはお世話になります。...。おや、あなたは裕美ちゃん、なにをしているの」
「桃香お姉さんのお父さんね。私は今、4分の5拍子の変則リズムを刻んでいるのよ」
「やあ、小川さん、ほんとに子供というのはひとつのことに夢中になり出したら、時間がある時には
そればかりしている。この前、デイヴ・ブルーベック・カルテットのタイム・アウトというアルバムを
聞いていたら、裕美はその中のテイク・ファイヴが気に入ったようで」
「そう言えば、深美も小さい頃、自宅でピアノが弾けない時には、画用紙に書いた鍵盤で夢中になって
練習していたっけ。で、大川さん、音弥君は何を」
「このピアノ曲が終わって、次の曲がはじまったらわかりますよ」
「何かリクエストされたのですね」
「ぼくのリクエストではありませんけどね。ほら「田園」が始まったでしょ。そうすると、音弥が指揮を
始める。音弥は今指揮をすることに夢中です。これは先月「ファンタジア」のビデオを購入したときから
始まりました。ストコフスキーがトッカータとフーガニ短調のオーケストラ編曲を指揮するのを見て
自分もやってみたくなったのでしょう。今のところはしゃいでいるだけですが、もう少ししたらぼくから
いろいろ指導するつもりです。スクワットとかトランポリンとか」
「あなた、それは音楽とあんまり関係がないんじゃないの」
「何を言っているんだ。何事をするにも基礎体力とバランス感覚は大切だと学校で習わなかったのかい。
そうだ、小川さんに言っておくことがありました。実はぼくからベンジャミンさんにこの前お会いした時に
今度の土曜日に深美ちゃんの演奏を聴いていただくようにとお願いしましたから。きっとプロの立場から、
いろんなアドヴァイスをしてくださると思いますよ」
「あとは相川さんがいてくれたら、みんな揃うんだけどな...。えっ、ま、まさか」
スピーカーのすぐ近くの席でコーヒーを飲んでいた相川が、3人のところにやって来た。
「小川さんは余計なことをするなと言うかもしれないけど、私から今度だけは私の願いを聞いてと相川さんにお願い
したのよ。だって、ロンドンで一番仲良しにしていたから、私たちより深美ちゃんのことをよく知っているし、
でも相川さんには無理をお願いしてしまったかな」
「いえいえ、アユミさん、ご心配なく。実は信じられないことがロンドンでは起きているんですよ。私の職場で
深美ちゃんのファン・クラブができていて、深美ちゃんのお母さんの親友から日本に帰って来て深美ちゃんを励ましてくれ
という依頼があったと話すと、みんなから是非そうしてあげてくれと言われたんですよ。私の場合、東京とロンドンどちらでも
やらなきゃあならない仕事はあるものですから、平日は仕事をして週末に深美ちゃんと一緒に帰るようにします」
「秋子から、水曜日は両親、深美ちゃんと3人で出掛けて将来のことを語り合うつもりと聞いているけれど...。
小川さん、私からお願いだけれど、ここは脇役に徹してほしいの。女同士の方が話しやすいってこともあるし、
音楽のことが全然わからない小川さんが何を言っても説得力がないと思うし」
「お前、それは言いすぎだよ。小川さんも深美ちゃんに親だから頼りがいがあると思われたいだろうし」
「あなたは黙っていて、で、どうなの小川さん」
「まあ、ぼくも40年以上生きて来たわけですし、したらいいこと、したらいけないことはわきまえているつもりです。
羽目を外すことはしませんよ」
「あなた、今の小川さんの言葉聞いたわね。もし外したら、こうなるから」
そう言って、アユミは右手の親指を立てて、それから手首を半回転させて指先で地面を指した。