プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生242」

小川は月曜日と火曜日は深夜まで残業をし朝いつもより早く仕事に出掛けたので、深美と会うことがなかった。
水曜日の朝、小川が食事を取っていると深美がやって来た。
「おはよう。せっかく、帰って来てくれたのに声も掛けずにすまなかった。でも、今日は休みだからゆっくり
 話を聞いてあげる。そうだどこかに行きたいのなら...」
「お父さん、そんなに無理しないで。私は会って少し話ができればそれでいいのよ」
「でも、これからどうするかを決めなきゃ困るだろ」
「そう、将来のことについてはいろいろ自分で考えてみたけれど、どうすればよいか今でも答えが出ないの。
 だから、こうしようと決めない限りは今の延長でずっと学校に通いながら、演奏活動を続けることになるでしょうね」
「まあまあ、おふたりとも今日は時間があるんだから、慌てないで。食事をしたら出掛けることにしましょ。
 今日は私がいろいろご案内するわ」
「ねえねえ、どこに連れて行ってくれるの」
「それは内緒。お父さんもどこに行くか知らないのよ。出掛ける前にひとつお願いがあるんだけれどふたりともそれが
 守れるかしら」
「それって、どんなこと」
「最後まで、何も言わないでお母さんについてくるということなの」
「私はいいわよ。お父さんはどうするの」
「そりゃー、ついて行くさ。地平線の果てまでも」
「オーバーね」

3人が最初にやって来たのは、秋子が勤務する音楽学校だった。秋子は自分の仕事場の上司に声を掛けるとピアノがある
スタジオにふたりを連れていった。
「お父さんとふたりだけで深美の演奏を聴きたくて、貸していただいたの。何か演奏してくれる」
「ええ、いいわよ。じゃあ、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第4番を弾こうかしら」
「お父さんも、その曲が大好きなんだ」
「よかった。じゃあ、さっそく弾いてみようかな」

「どうだった」
「素晴らしかった。本当に深美はモーツァルトとベートーヴェンのピアノ・ソナタの全曲を暗譜で演奏できるのね」
「そうだけれど、さらに解釈を深めるために演奏会の前に何度も弾き込むのよ。そうしないといい演奏はできないわ。
 お母さんの職場の人が希望されるのなら、何か弾いてもいいわよ」
「まあ、うれしいわ。じゃあ、お願いしようかしら。ちょっと待っていてね」
「でも、ここまで凄いとは思わなかったよ。アユミさんは深美にはヴィルトゥオーゾになる素質があると言っていたし、
 相川さんからは深美の演奏を絶賛する手紙をもらったし」
「でも、お父さん、技巧は練習すればいくらでも上達するものだけれど、作品の解釈ということになると音楽学校で
 習うだけでは駄目だと思うの。今習っている先生がとてもいい先生で、演奏がうまくなるだけではいつかそれ以上は
 上に行けなくなると言っているの。大学で一般教養を身につけたり、読書をしたり、人生の荒波でもまれたり、大恋愛を
 したりすると演奏に反映されて行くって言われるの。恋をしてひどい目に遭うのは嫌だけれど、それでもそんなことでも
 演奏に影響して他の人に真似のできない演奏になると言われたの。音楽学校では真面目に勉強して来たから、よい評価を
 いただいているけれど、一度学校を出て外の世界でやってみたほうが演奏にいい影響があるんじゃないかと思われている
 ようなの。でも、音楽のことしか考えてこなかった私が今から勉強してどの程度の教養が身に付くのかしら。今は
 将来大物になる可能性がある新人と思われているけれど、いつまでもモーツァルトとベートーヴェンのピアノ作品を
 弾いていればよいというわけにはいかないと思うわ。でもロマン派の作品を弾きこなすには、自分の解釈が必要になるし
 それの拠り所として文学作品というものが役に立つような気がするの」
「深美の悩みというのはそういうことなんだね。今日中にお父さんの意見を言わしてもらうよ。あっ、お母さんが帰って
 来たようだ。随分、連れて来たなあ」
母親が連れて来た、同僚の人々を前にして深美はお辞儀をしてから話し始めた。
「みなさん、母がいつもお世話になっています。みなさんのために、2曲演奏させていただきます。みなさんがよくご存知の
 月光ソナタと熱情ソナタをお聴きいただきます」