プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生244」
小川は土曜日の朝に片付けなければならない仕事があったので早朝に出社し、お昼前に会場の相川がよく利用するレストランに
向かうことにした。小川は少しでも早くそのレストランに行きたかったが、着いたのは午後1時を少し過ぎていた。
レストランの入口には桃香が立っていて、小川がやってく来るとほほえんで抱きついた。
「お父さん、みんなお父さんが来るのを待っているわ」
「みんな揃っているのかな」
「そうよ、ベンさんも相川のおじさんもアユミ先生もご主人も。お父さんがなかなかここに来ないから、お母さんは、お父さんが
来たら食事を出してもらいましょう。みなさん、それまではお酒でも飲んでいて下さいと言ったの」
「じゃあ、みんな飲んだのかな」
小川は一縷の望みを期待して、そっと桃香に尋ねてみた。
「ベンさんは、今日お姉さんに大切なお話があるからと言ってお酒は飲んでいないけれど、アユミ先生とご主人はご機嫌だから
お酒を大分飲んでいるんじゃないかしら」
「......」
「お父さん、早く入りましょ」
扉を開くとアユミが弾くピアノにみんなが聴き入っていた。扉の近くにいるベンジャミンが最初に小川に声を掛けた。
「オマエ、ミンナ待っとったのにドウシタン」
「遅くなって、すみません」
小川が入口で動こうとしないので、相川が右手を差し出した。小川は握手を交わした上で左手でを添えた。
「相川さん、今日来て下さったことに感謝します」
「小川さん、私だけでなくここにおられるみなさんは深美ちゃんを励ますために来ているのですが、ここで深美ちゃんの将来のことも
話し合っておいた方がよいと思うのです。もちろん本人の意思も大切ですが、ご両親のご意見も尊重するべきだと思います。小川さんは
深美ちゃんの将来のためには今、どうするのがよいと考えますか」
「どうせ、この人はやっぱり本人の意志が一番大切だと思うとか言って、自分が助言する必要はないと言うつもりよ。そうでしょ」
「いえ、違いますね。今日、ぼくははっきりと言わせてもらいますよ」
「じゃあ、言ってみな」
「ぼくは深美が...深美が...」
「早く言ったらどうなの」
「深美が高校に編入するのが一番いいと考えています」
「オウ アナタ、モウイッペンイッタって。ワタシ きっとキキ間違えたんヤトオモウワ」
「何遍でも言います。高校に編入させます。年内にロンドンの音楽学校にそのことを伝え、4月からは日本で高校の普通科に
通うようにします。1年間しっかり勉強させて大学に入ってもらい...」
「オマエ ムチャクチャやな。そらマチガットルデ」
「そうよ、ベンジャミンさんが言う通りだわ。あなたの選択は間違っているわ。許せないから、こうしてやる」
そう言って、アユミは小川の首のところに両手を持って行くとネック・ハンギング・ツリーの大技を掛けた。
小川はそれでも自分が言っていることが正しいと主張し続けた。
「どうしてかと言うと、私は、私は...深美が大きくなった時に後悔しないためにはこ、これが...」
「小川さん、私のロンドンの職場では深美ちゃんのファンが多くいます。今のお話を聞いたらきっとみんながっかりするでしょう」
「小川さん、今なら前言を撤回できますよ。第一、今まで教育費はすべてロンドンの音楽学校もちですが、高校に編入するとなると
全部小川さんが負担しなければならなくなりますよ」
「さあ、私が間違っていましたと今すぐ言うのよ。これなら音を上げるでしょう」
そう言って、アユミは更に高く小川を持ち上げたので、小川の意識はだんだん薄れて行った。