プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生246」
延々と続く演奏を予想していた激励の会が早く終わったので、小川は、夕飯にすき焼きをすることを家族に提案した。
商店街を4人でぶらぶらして食材を購入し家に帰るとみんなで仕度して、午後7時にはコンロに火を点けた。
「でも、こうしてみんなですき焼きをつつくのも久しぶりだなあ。深美はロンドンですき焼きなんか食べたのかな」
「ええ、相川さんがそういうお店があるのを知っていて、何度か連れて行ってもらったわ。相川さんのおかげで
ホームシックになることはなかったけれど、でもやっぱりこうして家族で食事をするのが一番いいわ」
1時間ほどして、家族みんなが食事に満足したところで小川が話し始めた。
「ところで、深美自身の意見は本当のところどうなんだい」
「この前に少しお父さんに話したけれど、いろんな経験をすることで演奏に良い影響を与えるというのは間違いないと
思うのよ。いろんな経験をして感動する。楽しいお喋りをしたり辛い別れを自分で体験する。こう言ったことは、
毎日朝早くから晩遅くまで音楽の勉強ばかりして、月に1回くらい演奏会をするような生活ではできないと思うの。
だから、お父さんがさっき言ってくれたことに感謝しているわ」
「ふふふ、お母さん、お父さんが言うことも、深美の言うことも正しいと思うから、精一杯応援しようとは思っているけれど、
今までのように音楽の勉強だけをしていればいいというわけにはいかないことは認識しておいてほしいわ」
「ええ、それはわかっているわ」
「音楽学校との関係はどうなるのかしら」
「音楽学校を中途で退学することになるけれど、先生方の話だともう一度ここで勉強するなら、いつでも歓迎すると言って
いるわ。だから、大学生活を終えたら、戻るかもしれない。さっき相川さんと少し話をしたんだけれど、相川さんは、
私が音楽学校にいつでも帰って来られるように話をつけておくと言って下さったの」
「あなたの人生だから、自分が選んだ道を歩めば良いわけだけれど、高校への編入は自分の努力次第だし、自分が独学で同じ
だけピアノの勉強をするためにはどうすればよいかは今度帰るまでによく考えておいてほしいわ。多分、これから
険しい山を登ろうとしている人に対してと、一旦下界の景色を十分に見てから頃合いを見て登ろうと考えている人に
対してとは著しく待遇が違って来るのは覚悟しないと駄目だわ」
「お父さんからひとつ提案したいことがあるんだけれど...」
「何かしら」
「深美は高校へ編入して一般の大学に行くのがいいと考えているようだけれど、音楽大学に行くことも考えておいてほしい。
お母さんが勤める音大やベンジャミンさんが勤める音大もよい先生方がたくさんおられるし設備も十分整っている。
お母さんは、高校の2年生までクラリネットを一所懸命に勉強してプロの方と共演できるまでになったのに、7年ほどの
ブランクは大きく、高校2年の時にあった高い技術を取り戻すことは難しいと考えて趣味としてクラリネットを演奏する
ことにしたんだ。だから深美も高校3年に編入して一般の大学に行ったとすると5年のブランクを取り戻さないといけない
ことになる。それよりかは...」
「私、お父さんが言うことはよくわかるわ。でも、今の気持は断然、一般の大学への進学なの」
「でも、深美、お前、一体何を勉強するつもりなんだい」
「私、昨年の暮れに相川さんからディケンズの「クリスマス・キャロル」をいただいたの。原語だったので、どれだけ理解
できたかはわからないけれど、通して読んでみてディケンズの文体や登場人物に味わいがあるな。もう少し彼の小説を研究
してみたいなと思ったの。ピアノとは疎遠になるかもしれないけれど、ロンドンとはこれからも仲良くするかも」
「本当のことなのかい。そんなことを言ったら、ディケンズ先生は喜ぶだろうけれど...」
「まあ、しばらくは深美を応援してあげましょう」