プチ小説「耳に馴染んだ懐かしい音7」

二郎は今年も森下さんのおばちゃんに頼まれておばちゃんが演奏する発表会にやって来たが、 受付の近くでいつまで待っても
来ないのでもう一度受付嬢に確認してみた。
「知り合いのものですが、森下よる子さんはまだ来られていないですか」
「ええ、まだですね。でも、午後4時からの演奏予定で、30分前までには来ていただくことになっていますから間もなく
 来られるでしょう。準備をされてから、15分前にはチューニング、音出しをされて5分前にはステージの袖に立たれますから、
 もうそろそろ」
「そうですか...。あっ、おばちゃん」
「ごめんなさい。一緒に演奏する方とスタジオで練習していたんだけれど。なかなか満足できなくて、気がついたらこんな時間に...。
 いけない、すぐに仕度して他のメンバーと合流しないと。演奏が終わったら、二郎君の席に行くから待っていて」
おばさんはそう言うと一緒に練習をしたおばさんと階段を駆け上がって行った。
「間に合ってよかった。それじゃあ、ぼくは客席でじっくり演奏を聴くとするか」

20分ほど待つと、森下さんのおばちゃんの番がやって来たが、いつも6人なのに今日はたった4人での演奏だった。
<モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークの第2楽章の抜粋だな。3部合奏で最後のところで4部に分かれている。
 人数が少ないし、無伴奏だからか、いつもと違ってミスが目立つな。今度は、ルロイ・アンダーソンのシンコペーテッド・クロックの
 2部合奏か。こっちはBGMがあるけど、速いテンポの曲だから、ついて行くのがやっとという感じだな...。それにピッ、ピッという
 異音が目立つな。リードがズレているのかな。まあ、それでも最後までできるだけ頑張った。よかったですよ...>
演奏が終わってクラリネットを片付けると森下さんのおばちゃんは二郎の席にやって来た。
「二郎君、今日はせっかく来てもらったけれど、満足できる演奏じゃなかった...」
「でも、いつもより人数が少ないのによく頑張られたと思いますよ」
「そう、いままでは大船に乗って揺られていればよかったのが、今回の発表会では小舟で4人で転覆しないように目一杯漕いだという感じね」
「と言うと」
「いつもリーダー的な役割をする女性が発表会の日に用事ができて、練習は参加するけれど本番は出席できないということになったの。
 その上、上手な人の一人が転勤されてこちらはレッスンに来られなくなったの。私と同じくらいのレベルの女性は法事でどうしても
 出席できないということで不参加。個人レッスンを受けられていた方が助っ人で入られて4人での演奏になったけれど、今回のリーダー
 を買って出られた女性が、年末から発表会前の練習の演奏を聞かれて、どうなることかと心配されていた。それで私と仲良しにしている
 女性とふたりで特訓をしてから、発表会に出ましょう。そうすればうまく行かなくても、納得できるだろうということになったの」
「それで到着するのが遅れたんですね」
「ええ、でも慌てて準備するとよくないわね。舞台の袖で待っている時に、リードがズレているのに気がついたんだけれど、直す間もなく
 ステージに出ることになった。2曲目を吹いていて、ピッ、ピッという音が気になったけれど、それでかえって緊張感が取れて、
 最後まで思いっきり演奏できた。みんな今回の演奏には満足できていないようだったけれど、いろんないい経験ができた
 のだから、私はよかったと思っているの」
「そうですよね。また、来年もあるんだし...。来年は期待していますよ」
「1年でいっぺんにうまくなることはないけれど、頑張るわ。そうして振り返って、頑張ってよかったと思えたらいいんじゃないかしら」