プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生247」
小川はいつもの喫茶店で席に着くと、昨日届いた相川からの手紙を開封した。
<相川さん、せっかく時間を作って深美を励ましに来てくれたのにあんなことになってしまって、怒っているんじゃないかな。
いや、むしろ怒って当たり前だろう。職場の人もみんな深美を応援していると言ってくれたのに、それを無視して演奏家になる
勉強を中断していいとぼくが言ったのだから。アユミさんのご主人は、アユミさんとベンジャミンさんにぼくの気持を伝えておくと
言ってくれたけれど今までのようなおつき合いができるんだろうか。ふたりとも秋子さんにとっては大切な友人であるけれど、
秋子さんがぼくを弁護したためにうまく行かなくなったということになると...。まあ、くよくよしたらどうかなるでもないだろし...。
とにかくこの手紙を読んでみよう>
小川弘士様
年末年始が多忙でお手紙を書くのが遅くなってしまいました。小川さんはきっとこの前の深美ちゃんの激励会の時のことを
気にしておられることと思いますが、私としては、小川さんは深美ちゃんの父親として立派に振る舞われたと思っています。
言うべきことを言って、家族の賛同を得た訳ですから、第三者がどうこう言っても仕方がありません。少なくとも5年間は
深美ちゃんの演奏を待たねばなりませんが、それ以降にひと回り成長した深美ちゃんを見られるのなら、楽しみに待つことにします。
深美ちゃんなら自分で選んだモラトリアムの期間を意義あるものにするに違いないでしょう。ぼくとしてはロンドンにいるので
今までのようにそばにいて力になってあげることができないのですが、その分、大川さんとアユミさんが大きな力になってくれる
でしょう。確かにアユミさんは深美ちゃんが引き続きロンドンで演奏家としての勉強をされることを希望されていましたが、あれから
すぐに考え方を切り替えられ、日本に帰って来られることになったので、その間は深美ちゃんが不自由しないように音楽的な環境を
維持すると言われていました。ベンジャミンも同様のことを言っているので、今度小川さんのところへ来た時には以前と変わらない
態度で接して下さい。いろいろありましたが、これからも今まで同様によろしくお願いしますというのが、大川さん、アユミさん、
ベンジャミンそして私の率直な気持です。ですから、今まで通りに小説の添削もさせていただきます。また私からも小説をお送りします。
そう言う訳で今回も同封させていただきましたので、お楽しみください。それではまだまだ寒い日が続きますので、お身体をご自愛下さい。
相川 隆司
「石山が乗った夜行バスが俊子が住む地方都市の高速バスのバス停に着くと、石山は真っ先に下りて辺りを見回した。時計を見ると
午前3時30分だった。石山は誰も迎えに来ていないのを残念に思ったが、すぐに気持を切り替えて、いかにして今から俊子の家に行き
俊子に会い、写真を撮ってからここに戻り、帰りの夜行バスに乗るかを考えた。<ここから俊子さんの家まで20キロある。交通機関を
利用しないととても行けない。始発のバスが出るのが午前6時30分だから、3時間はここで待たなければならない。おや、めずらしいな
タクシーがやって来た。でもあれを利用すると深夜料金だし一万円は覚悟しなければならない。ぼくの薄給ではとても無理だ。
あれ、誰かタクシーを降りてこちらにやってくる。もしかするとあの女性は...>女性が近くに来ると、石山はそれが俊子の母親である
ことがわかった。母親はジャージを着ていた。「ホンマにやってきよったんやね。でも、あんたの思うとるようにはいかんのよ」
母親が言葉を切ると同時にタクシーはエンジンをかけ、ふたりから遠ざかって行った。「ああーっ、おかあさん、あれが行って
しまったら、困らないですか」「なんーも、困らんよ」「どうして家まで帰られるんですか」「もちろん走るんよ。あんたも来んしゃい」
「おかあさん、ちょっと聞いて下さい。ぼくは俊子さんの写真を撮らせていただくためにたくさん機材を持って来たんです。見ての通り
一眼レフカメラ2台に交換レンズ5本、それを入れるためのアルミ製のカメラバック、三脚もイタリア製のがっしりしたのを...」「そりゃ、
あんたの勝手だがね。わたしゃ、今すぐ走り出すから、あんたついて来んしゃい」「待って下さい。それにこの格好を見て下さい。
イタリア製の高級紳士服に、日本製のネクタイと底上げブーツ、これで20キロも走れと言うんですか」「そら、あんたの好きにしたら
いいんよ。でも...」「でも、なんですか」「でも、始発バスまでここにいて、ゆっくり俊子のところに行こうという考え方なら...」
「そうだったら、どうなるんですか」「そら、熱意のない人は家に入れんということになるやろね」「......」「まあ、ぼちぼち
行っとるから」そう言うと、母親は石山に背を向けて走り出した」