プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生249」
アユミの夫はしばらく身体をくの字に曲げて痛がっていたが、アユミが秋子と一緒に奥にはいって行くのを見ると、
小川に話しかけた。
「うん、今のは久しぶりの心のこもった一発でした」
「すみません。ぼくがもう少し早く来ていれば、アユミさんの怒りが爆発することもなかったでしょう」
「それはわかりませんね。でも、最近、強烈なパンチをもらえなかったので、小川さんには感謝しています」
「......」
アユミがお茶を出し終えると、小川は改めて自分の考えを述べた。
「
大川さん、アユミさん、
この前は失礼なことを...」
「小川さん、そのことなら、ぼくもアユミも済んだことと思っていますので、何も言わなくていいですよ」
「でも...」
「私に技を掛けられて失神しても意志を曲げなかったんだから、立派だった。それを今になって否定するのは、
自分がしたことは間違っていたということになりかねないわよ。ここは小川さんは胸を張って、これからの
深美ちゃんのことをどうするか語ればいいのよ」
「わかりました。でも、深美は自分で将来のことを、少なくともこれから先10年くらいのことは考えている
ようですから、ぼくは深美が困っている時だけ、父親の役割を果たそうと考えているんです。それよりも
深美が帰国しても、音楽的な環境を保っていただけるとアユミさんはおっしゃっていましたが、具体的には
どうされるのですか」
「ああ、そのことなら、私とアユミの知り合いの音楽家に相談するつもりです。深美ちゃんが帰って来たら、
ブランクなしに同じ程度の音楽教育が受けられるようにするつもりです」
「ベンジャミンさんとはどうなりますか」
「彼はヴァイオリニストだから、弦楽器奏者に知り合いが多いのですが、ピアニストの知り合いは少ない。むしろ
アユミの方が深美ちゃんの指導者としては適任だと思います。ベンジャミンは桃香ちゃんを指導すると張り切っている
のだから、あえて深美ちゃんまで彼に任す必要はないと思います」
秋子は3人の話を黙って聞いていたが、肝心の話を誰もしないので自分から切り出した。
「でも、忘れないでほしいのは、深美が今何をしたいと思っているかだわ。この前、深美が言っていたことを
覚えているかしら」
「確か、深美ちゃんは、高校3年に編入して1年間一所懸命に勉強して、英文科に入りディケンズを研究したいと
言われていましたね」
「大学生活では教養を深めるだけでなく個人的な深いおつき合いなんかも経験して人間的に成長すれば、演奏に
反映されていくってイギリスの音楽学校の先生が仰っていたと言っていたわ。私はその先生の言うとおりだと思うの」
「そうね、そのとおりだわ。私達はいろんな面で精一杯彼女を応援しましょ」
その日、小川は書斎で持ち帰り残業を片付けてから横になった。眠りにつくとディケンズ先生が夢の中に現れた。
「小川君は最近私の作品を読んでくれていないが...」
「そう言えば、『ニコラス・ニクルビー』の翻訳が出ているんでしたね。また風光書房で手に入るといいな...。
今度の週末に行ってみることにします」
「そうだね。でも、その前に『クリスマス・キャロル』を読んでおくといいよ。だって、君の小説に取り込む
ことになっているのだから」
「そうですね。別の訳があったら、それも購入することにします」