プチ小説「たこちゃんの心臓」

ハート コラソーン ヘルツ というのは心臓のことだけれど、ぼくは若い時、人前で話すことが苦手で、
特に高校時代にリーダーの授業で立って一段落を読んで訳したり、世界史の授業で立って教科書を1ページ余り
読んだりした時の恥ずかしい思いは今でも苦い記憶として残っている。いずれも自分の準備不足が悪いのだが、
当時遊ぶことしか頭になかったぼくには、英語の予習をしたり授業の前の日に世界史の教科書を読んでおくなんて
とてもできなかった。高校時代はプロ野球中継ばかりを見ていて、特に◯◯軍の◯◯投手はノミの心臓と言われていて
親近感を持っていたが、ある人から聞いてその人が新幹線の中で平気でエッチな本を読んでいることを知り、ぼくは
もしかしたらこのひとはノミの心臓というのは仮の姿で、本当は象より大きな心臓を持っているんじゃないかと思う
ようになり、親近感を持つことをやめたんだ。それからも相変わらず人前で話すのは苦手だった。大学に入って、
語学や演習の授業で人前で話すこともあったが、その時は充分な予習をして臨んだので恥をかかずに済んだ。それでも
50人以上の人の前で話すことを考えると、とてもできないと考えていたんだ。就職してから5年ほど経った頃、
毎日のように大酒を飲んでいたぼくは、2ヶ月に一度焼き鳥屋にも行っていた。ある日、ハツというのが心臓のことで
見た目も心臓そのものだったけど、柔らかくてイケる味だということを知ったんだ。半年くらい「ハツを塩で」
と頼むのが楽しみだったが、ある日、ハツをたくさん食べれば心臓に滋養がまわり毛が生えるくらいになるんじゃないかと
思い3人前頼んだが、飽きが来て残りを一緒に来ていた人に食べてもらったんだ。それでも中年に差し掛かる頃には
人前で話すのが苦手というのはなくなり、その頃には青春のはにかみは顔から消えてなくなり、ただのおっさんに
成長したのだった。駅前で客待ちをしているスキンヘッドのタクシー運転手は、ぼくと違って、今でもはにかむことがあって
少年らしいうぶな側面も残しているのだろうか。そこにいるから訊いてみよう。「こんにちは」「オウ ブエノスディアス
エルニーニョエチャロスディエンテス」「まさかお孫さんのことではないですよね」「まさか、ウチの娘は高校生やで。
近所の子どものことや。歯が生える頃の子どもがワシは一番好きやな」「ところで鼻田さんは人前で恥ずかしい思いを
したことがありますか」「そら、あるけど、わしらの場合、下ネタや品のないネタになるから、インテリの船場はんには
話すのやめとくわ」「ぼくはインテリでもなんでもありません。鼻田さんの生徒です」「えらい謙虚やな。ところで、
あんたの本、その後、どうなっとるん」「「こんにちは、ディケンズ先生」船場弘章著 近代文藝社刊のことですね。
残念ながら、全然売れていませんが、公立図書館97 大学図書館45に受け入れていただきました」「ほう、で、
他には何か話題はないんか」「と言いますと...」「これのことやがな」「......」「どや」「鼻田さん、多分、鼻田さんがしようと
思われたのは小指を立てる仕草だと思うんですよ。人差し指と中指の間から...ではなくて」「船場はん、赤なりよった。
ほんまにあんたはうぶな人や。わしらから言うたら、あんまり変わらんことやと思うねんけどな」「そうですか、
貴重なご意見ありがとうございます」「船場はんは多分あまりにプラトニックな恋愛を夢想しているから、女の子に
相手にされへんのかもしれへん」「......」「まあ、そんな悲愴な顔をせんといてちょーだい。そや、ずっと前に言うとったけど、
景気づけのために、彼女を口説く時のフレーズ、ベスト10を 伝授しようちゅーとったん覚えとるか」「ええ、もちろん。
でも、今となっては過去のことですけと...」「なにゆーとるのん。もっと、前向きに明るく行かんと、人生デッドロックに乗り
上げるんや」「そうですか、なら、謹聴しますので、伝授してください」「そうや、その意気やで。ところで、船場はん、
あんたの好きなものを言うてみい」「ぼくはこう見えても粉もんの中ではたこ焼きが好きですね。自分の顔に似ているから
親近感もあるし」「な、なんであんたそんなこと言うたら、後が続かへんがな。よりによってたこ焼きやなんて」
「どうしてですか」「わしはやな、ベストテンの10位は、自分の好きな物よりあなたが好きというのは、これは使えるよ
ということを教えたろと思うてんけど、「たこ焼きが好きです。でもあなたの方がもっと好きです」ちゅ−のは、ちょっとなー」
「......」「心配せんでも、まだ9つあるから、気イ落さんでええよ」