プチ小説「音楽のストリーム2」
渋谷の道玄坂を中程まで上がって右折し、50メートルほど行ったところにある名曲喫茶の扉を梅田が開けると、
モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲が彼を包み込んだ。するとこの曲にまつわるエピソードや
彼自身の体験が奔流のようになって彼の頭の中を駆け巡った。
やあ、うまい具合にいま始まったばかりのようだ。この典雅な響きはきっとランパルとラスキーヌのソロにちがいない。
本当に大型スピーカーで聴くハープの音はすばらしい。ランパルも輝かしい音で美しいメロディーを奏でている。
ベートーヴェンやロマン派の苦悩を突き抜けて歓喜に至るといった内容の音楽ばかりを聴いていたぼくが
モーツァルトに目覚めたのはまさにこの曲だった。モーツァルトの作品は美しいが、ベートーヴェンほどの
感動を齎すような音楽でないとどこかに書かれていたことを鵜呑みにした、ぼくはクラシック音楽を聴きはじめて
最初の8年間ほどはモーツァルトの音楽をほとんど聴かなかった。ある日、レンタルCD店で借りて来たCDの中に
この曲が入っていた。確か5枚借りたうちの1枚だった。買うほどのものではないが、名曲と言われているから
一度聴いておこうと思い借りたのだった。しかしそれをプレーヤーで再生するとその音楽の素晴らしさの虜となった。
そして思わずつぶやいたんだ。「ぼくはこの曲に強く惹かれている。その美しさに魅了されている。この曲は苦悩を
突き抜けるような曲ではないが、ぼくに大きな感動を与えてくれる。感動を与える音楽はなにもベートヴェンや
ブラームスだけでなく、モーツァルトにだってある。これからは興味を持った曲は偏見を持たずにどんどん聴いて行こう」
またこの曲はハープの音を実際の音に近い音で聴きたいという、オーディオ熱を引き起こした。それまでささやかな
オーディオ装置で少しでもたくさんロマン派の音楽を聴きたいと思っていたのが、気がつくと1つが40キロの重さの
スピーカーを購入していた。これだけ大きなスピーカーだときっとハープの音は、ポロンポロンではなく、
ボローーンン、ボローーンンとよく響く心地よい音を奏でてくれるだろうと思った。つまりこの曲に出逢うことで
クラシック音楽をもっと幅広く聴きたい、もっとよい装置で聴きたいと思ったんだ。モーツァルトの素晴らしい作品は
ちょっと考えただけでも30くらいはすぐに言える。ピアノ協奏曲では第20番、第21番、第23番、第24番、
第27番がある。管楽器の協奏曲では、協奏交響曲だけでなくクラリネット、オーボエ、ホルン独奏の協奏曲がある。
交響曲では、第39番、第40番、第41番の3大交響曲だけでなく、第35番「ハフナー」第36番「リンツ」、
第38番「プラハ」もすばらしい。ヴァイオリン・ソナタはグリュミオーとハスキルがレコードを残した、第25番、
第28番、第32番、第34番、第40番、第42番が好きだ。またピアノ・ソナタは第8番、第11番、第15番が好きだ。
モーツァルトは室内楽にも名曲がたくさんある。弦楽四重奏曲では、プロシア王第1番から第3番(第21番から第23番)
が好きだが、ニ短調の第15番は暗い中に明るさが現れてほっとする。そうだ、弦楽五重奏曲第4番も同じニ短調の曲だ。
管楽器によるセレナードも好きだ。第11番、第12番とそれにコントラバスも加わる、第10番の「グラン・パルティータ」
はモーツァルトの管楽器のための作品の最高峰と言えるだろう。それから、セレナード第13番の「アイネ・クライネ・ナハト
ムジーク」は小編成の弦楽合奏の最高峰と言えるだろう。オペラは今のところ、「魔笛」だけだが、他のオペラもじっくり
聴いてみたい。宗教曲ではやはり「レクイエム」だろうが、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」の美しいメロディーに引かれる。
そうだ、映画「オーケストラの少女」でディアナ・ダービンがストコフスキーに披露した「ハレルヤ」は、「踊れ、喜べ、
幸な魂よ」の中の曲だった。歌曲では、「すみれ」「春のあこがれ」なんかがいい...。
きっとまだまだモーツァルトの名曲でぼくの知らない曲があるだろう。今では、モーツァルトがいたからクラシック音楽
というジャンルができたと思っているくらいだが、そのきっかけを作ってくれたフルートとハープのための協奏曲には
心から感謝したいと思っている。そうだ、感謝の気持ちを込めて、今日はモーツァルトをリクエストすることにしよう。
ちょうど、ウェイターが注文したアイスミルクコーヒーを持って来てくれた。
「すみません。モーツァルトのクラリネット五重奏曲をレオポルド・ウラッハとウィーン・コンツェルトハウス四重奏団の
演奏で聴きたいんですが」
「わかりました。この次に掛けることができると思います」