プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生251」

小川はいつもの喫茶店に久しぶりにやって来た。昨日、風光書房で購入した「ニコラス・ニクルビー」を読むためだった。
<それにしても、風光書房の店主が「ドンビー父子」と交換でと言われたので、「ドンビー父子」を手放してしまったが、
 苦労して手にした本だから手放すのは少し辛かった。でも、いつかはディケンズの14編の長編小説すべての翻訳を
 揃えるようにしよう。それから例えば、「大いなる遺産」や「二都物語」はいくつかの翻訳が出ているから、それを
 全部購入して読み比べるのも面白いだろう。きっと翻訳家の個性が出ているだろうから。おや>
小川が顔を上げると秋子がそこにいた。20年前に上京して小川を訪ねた時と同じ席に小川が座っていて、テーブルを
挟んで秋子が微笑みかけたのもその時と同じだったので、小川は当惑して、近くにあるカレンダーを見て今いつなのかを確認した。
「えーと、2007年4月だな。秋子さんが初めてここに来たのは確か...」
「ふふふ、1988年1月よ。あれから20年近くになるのね。でも、なぜかここには、それ以来来ることがなかった」
「そう言えば、名曲喫茶ヴィオロンには二人してよく出掛けるけど、ぼくがここを利用するのは平日の早朝で、たまに土曜日の
 午前中だけだから、秋子さんがここに来ることはなかったんだね」
「でも、今日は小川さん張り切って、「ニコラス・ニクルビー」を読むんだって家を出る時に言っていたから、きっとここに
 来ているだろうなと思ってやって来たの」
「用事を済ませて、来てくれたわけだ。ああ、いつまでも立たせていてすまない。コーヒーを注文しようか」
「ええ、お願いするわ。今日、ここに来たのは、なつかしい思い出の場所を訪ねてみたいというのもあったんだけど、
 「ニコラス・ニクルビー」という小説のことを小川さんがよく話していたから、どんな小説なのか知りたくなって」
「実は、内容について、ぼくもよく知らないんだ。小池滋さんがディケンズ先生の未完の小説「エドウィン・ドルードの謎」を
 訳されていて、その巻末に長編小説のあらすじを書かれているが、2つの長編小説については、それがない。ひとつは
 以前、秋子さんに、ディケンズ先生らしくない小説と言っていた...」
「わかった。「マーティン・チャズルウィット」ね」
「そしてもうひとつがこの小説なんだ」
「それじゃー、あまり楽しい小説じゃあないのかしら」
「ベンジャミンさんと合うまでは、そう思っていたけど、彼から是非読んでみてと言われてからは、翻訳が出たらすぐに
 読もうと思っていたんだ」
「そう言えば、いつか、小川さん、ベンジャミンさんと知り合いになれたのは、ふたりともディケンズファンで、新幹線の中で
 ベンジャミンさんが「ニコラス・ニクルビー」を読んでいるのに興味を持って、声を掛けたって言っていたわね」
「そうなんだ。「ニコラス・ニクルビー」がベンジャミンさんとぼくを結びつけてくれたという感じさ。それからしばらくして
 田辺洋子さんが「ニコラス・ニクルビー」の全訳を出されたが、一部の公立図書館でしか読むことができなかったんだ。
 それがようやく手に入った」
「それだけ聞けたら、帰るわ。あとは小川さんがその小説を楽しんで。じゃあゆっくり読んでまた感想を...」
「まさか、秋子さんをこのまま家に帰せるわけないじゃないか。音大での練習は明日だろ。今日は久しぶりに思い出の場所に
 行こう」
「そうね。それもいいわね。わたしは上野公園と風光書房と名曲喫茶ライオンに行きたいわ」
「風光書房には昨日も行ったけど、秋子さんが希望するんだったら...」
「そう、たっての希望なの」