プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生252」
小川と秋子は、その喫茶店の近くにある神田の古書街へと向かった。しばらくして秋子が思い出したように小川に語りかけた。
「小川さん、悪いけど風光書房さんに行く前に寄って行きたいところがあるの。前に行ったことがある楽器店なんだけれど、
小川さんと二人で行くとまたそこで道草しちゃうから、先に風光書房に行ってもらえないかしら」
「ははは、時間は有効に使おうというわけだね。いいよ、もちろん。風光書房で待っているよ」
「そんなにかからないと思うわ。じゃあ、あとで」
小川が風光書房に行くと店内に客はおらず、小川が入って来たのを知って、店主は小川に声を掛けた。
「やあ、小川さん、連日のご来店ありがとうございます。何かお探しですか」
「いいえ、実は今日は妻がどうしてもここに来たいと言ったので...」
「そうですか、小川さんはご存じないかもしれないけど、奥さんもお一人でご来店いただいているんですよ」
「そうなんですか。知らなかったなあ。やっぱり、イギリス文学ですか」
「いえいえ、うちはクラシック音楽の専門書もたくさん置いているので、それに興味を持たれているようですよ」
エレベータの扉が開いて秋子が風光書房に入って来たが、そのあとに男性が続いた。ベンジャミンだった。
「オウ、オマエ、ゲンキデシタか」
「えーっ、な、なんで、ベンジャミンさんがここに」
「ワタシ、ナニもシリマセン。アキコがここに来れば、「ドンビー父子」を渡すと言ったので、ここに来たダケです」
「とすると、「ニコラス・ニクルビー」の持ち主はベンジャミンさんだったんですか」
「ソウ言うオマエが「ドンビー」の持ち主ナノか」
「でも、なかなか入手できない本をどうして手に入れられたのですか」
「ソラ、アンタ、前から「ニコラス」のファンだったから、新訳が出たと聞いてすぐにコウニュウしたんよ。
この前、アキコに会った時に「ニコラス」のことを言ったら、うれしそうにしていたが」
「そうだったんですか。でも、秋子さん、ベンジャミンさんをわざわざ呼び出すこともなかっただろうに」
「わたしが考えたのは、ひとつはベンジャミンさんに重たい本を持って来てもらわないということなの。だからここに送って
もらったの。それともうひとつはここにあるクラシック関連の古書をベンジャミンさんに見てもらいたかったの。
ベンジャミンさんは家に来られた時に「ドンビー父子」が棚に並べてあるのを見て、一度日本語訳を読んでみたいと
言われていたの。それで、どうしたら小川さん、ベンジャミンさん、店主さんが幸せになるか考えてみたの」
「オウ、アキコの発想はイツモドオリスバラシイ。ワタシが前からほしいと思っていたフルホンがここにはたくさんあります。
ここにある、岩波新書の「孤独の対話 ―ベートーヴェンの会話帖ー」(山根銀二著)はソクコウニュウします」
「それは、ありがとうございます。わたしは小川さんの奥さんからあなたのお住まいに許可を得て、「ドンビー父子」を送るように
言われたのですが、そうさせていただいてよろしいですか」
「イイエ、名刺を渡しておくから、大学に送ってチョウダイ。ところで、折角のキカイやから、お二人さん、ちょっと
大切なハナシをしたいのですが、ヨロシイですか」
「じゃあ、ベンジャミンさんが支払いや発送依頼を終えたら、この近くのレストランで昼食を取ろう。ベンジャミンさん、
何か、言いたいことが...」
「ワタシ、ざるそばとおやこドンブリがええと思うとるけど、それでは、イケナイですか」
「神田には、おそばの美味しい店がたくさんあるから、賛成よ。駿河台下の交差点を渡って少し行ったところにおいしいおそば屋さん
があったわ。でも、親子丼はあったかしら」
「オウ、グッド。そこへいこまい」