プチ小説「音楽のストリーム3」

阿佐ヶ谷駅から荻窪の方向に5分ほど歩いたところにある名曲喫茶の扉を梅田が開けると、ブルックナーの交響曲第7番の出だしの
旋律が聞こえて来た。前の席が空いていたので、彼は迷わず店の奥へと進みスピーカーと対峙した。コーヒーの注文が済むと、
彼は腕を組み頭を少し前に突き出し、目を閉じて流れて来る旋律に耳を傾けた。するとこの曲にまつわるエピソードや彼自身の体験が
奔流のようになって彼の頭の中を駆け巡った。

ブルックナーは交響曲の作曲家として知られている。なかでも第4番、第7番、第8番、第9番は名曲でたくさんのレコードが
残されている。第4番はあまりに第1楽章が充実しているためにぼくはその後の楽章を切り上げてしまう。レコードの針を上げて
しまうのだ。決してつまらないことはないのだが、なぜかもう十分楽しませてもらったという気になってしまう。また第8番は
ハープの音色にうっとりしていると、突然、荒々しい旋律が現れたりする。なんだか夢を破られたようでその後はこの曲を楽しめなく
してしまう。そういうことで、ぼくは昔から、第7番と第9番だけを聴いて来た。第7番を始めて聴いたのは、ショルティ指揮
ウィーン・フィルのレコードだった。この曲の第1楽章の美しさを表現するなら、ドイツ、オーストリア、スイスなどの国のアルプスに
抱かれた森といったところだろう。第2楽章のブルックナーの情念をそのまま森の中にある湖に映し出したような、味わい深い
洗練された旋律はいつ聴いても心の中に熱いものを齎してくれる。第3楽章の軽快な旋律もいいし、第4楽章は締めくくりにふさわしく、
美しさと勇壮さを併せ持っている。この曲の一番の魅力はつやのある弦の音なので、やはり名盤と言われるものの多くは
オーケストラはウィーン・フィルだ。ぼくはショルティ盤の他、ベーム盤それからカラヤンのラスト・レコーディングと言われる
CDも持っているがどちらもウィーン・フィルを指揮している。カラヤンは最晩年に、またベームもこの曲を80才を過ぎてから
録音しているが、オーケストラの巧みの技を存分に味わえるこの曲を巨匠の最晩年の記念碑として残しておきたかったのだろうと思う。
でもぼくが20年近くその虜になっていたのはフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのCDだった。とにかくこの演奏の魅力は
フルトヴェングラーが独自のテンポ設定で魅力ある旋律に息吹を吹き込んでいるところにあるのだろう。ある時は雄大に、
ある時はやさしく、ある時は躍動感があり、そしてフィナーレは堂々と締めくくっている。そんなフルトヴェングラーの演奏を
盤質のいいイギリス盤で聴く日がやってくるのだろうか。それから第9番の方は当初は廉価盤で出ていた、ロジェストヴェンスキー盤を
飽きもせず聴いてたが、ある日、エアチェックしたクレンペラー盤が息を呑むほどのすばらしい演奏で、暇をみつけてはラジカセでそれを
録音したテープを聴いていたっけ。それから10年ほどしてエンジェル盤(アメリカ盤)を手に入れたが、演奏、音質共に優れた
レコードはそれまでの何十倍もの感動を齎してくれた。ある日、その後手に入れたEMI盤(ASD2719のオリジナル盤だが)を渋谷の
ライオンで掛けてもらったが、ジャケットの天空をイメージしたジャケットを見ながら聴いていると、それは感動という枠を超えて、
天上へとぼくを導いてくれるようなそんな気がした。クレンペラー85才の頃の演奏だから、とても心技体が充実している演奏
とは言い難いものだが、クレンペラーの白鳥の歌と言われているこの演奏はなぜか深い感動を齎してくれる。第9番は未完の作品で
3楽章しかない。ブルックナーは、第4楽章(終楽章)ができなかった場合は、その十年程前に作曲された、宗教合唱曲の「テ・デウム」を
終楽章に持ってくるようにと言っていた。自分の死を意識したブルックナーが、荘厳な雰囲気に満ちた第9番の終楽章に「テ・デウム」を
持ってくるようにと言ったのは、少なくともこの曲が宗教曲としても通用する曲と考えたからにちがいない。そんなブルックナーの
交響曲第9番を巨匠クレンペラーが最後の力を振り絞って演奏する。それは最晩年のベートーヴェンが聴力の不安を克服して、
最後の交響曲第9番を完成させ披露した時と同様に、不思議な力が働いたとしか考えられない。まさに奇跡の演奏と言えるだろう。

そうだ、今日はこのレコードを持って来ていた。じっくり聴いてみるか。
「マスター、コーヒーをおかわりしますから、このレコードをかけてもらえませんか」
「いいですよ。リクエストがないから、すぐに掛けましょう」