プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生12」

小川と秋子はお茶の水駅で待ち合わせ、駅の近くにある楽器店に向かった。
「小川さんには詳しく話さなかったけど、私、高校を卒業するまでかなりクラリネットを
 やっていたのよ。今日は、また演奏を始めるためにリードやマウスピースなどの小物を
 買おうかと思っているの」
「そう、それじゃあ、ゆっくり検討するといいよ。でも楽器って高いんじゃないの。それに...」
「そうね、クラリネット自体はそれこそ高いのだったら100万円位するのもあるけど、だいたい
 30万円から40万円位じゃないかしら。でも今日買おうと思っているマウスピースは8千5百円位、
 またリードは10本入りが3千円位よ。ちょっと店員さんに訊いてみよう。ここでは、購入希望の
 マウスピースを実際に吹かせてもらうことはできますか。自分の楽器は持って来ていないのですが」
「よろしいですよ。3階に試聴室がありますから、そちらへどうぞ」
店員はふたりを案内すると準備のために外した。
「せっかく、こうして目の前で君がクラリネットを手にするんだから、何か演奏してほしいな」
「そうね、じゃぁ、何がいい」
そう言って、秋子は持参した楽譜を見せた。それで、小川は秋子が最初からそのつもりでいたことがわかった。
「実は、楽器も持って来たかったんだけど...。それで何かいい方法はないかと思い、楽器店の一角を
借りることにしたの。野外だと人が集まって来るし...。今日はあなただけに聞いてもらいたかったから」
店員が楽器本体とマウスピース、リガチャー、リードを持って来て説明し終わると、秋子は楽譜を見せ
マウスピース一つとリード一箱は必ず購入するのでしばらく吹かせてほしいと伝えると店員は承諾した。

秋子を東京駅に見送りに行き、小川が家に帰ったのは午前0時頃だった。
<おたがい貧乏なので新幹線はできるだけ使わないようにしているが、それでもこんなに頻繁に会うとなると
 ...。秋子さんは何か考えがあるようだったけれど...。明日は日直なので、もう寝よう>

夢の中でディケンズ先生はいつものような上機嫌が影を潜め、少しよそよそしかった。
「小川君、最近は私の本を読んでくれていないようだね」
「先生、実は「荒涼館」を読んでいるのですが、今ひとつのめり込めなくて」
「そうか、そうだったのか。その前に読んでくれた「炉端のこおろぎ」も君の好みに合わなかったようだね」
「そうなんです、今は実際の生活の方が充実していて、そのために本に没頭できないのかもしれません」
「確かに文学にのめり込むためには、何らかの渇きのようなものがなければならないのかもしれない。毎日の
 生活が楽しく充実しているのなら、あえてそれを求める必要はないんだからね。ではまた」
そう言って小川に背中を見せたディケンズ先生の肩は小刻みに震えていて、寂しそうだった。