プチ小説「クリスマス・イヴの夜に」

大西がその夜家に帰ったのは、午後10時を過ぎていた。いつもより遅くなったが、それは読書に夢中になって時が経つのを忘れたからだった。
クリスマス・イヴの夜を特別な夜にしようと正午すぎに出かけたが、レコード店と書店、古書店をはしごし、通い慣れた喫茶店で読書をして
帰宅するといういつもと同じ休日を過ごしただけだった。彼の家は、三畳一間の和室で 万年床のふとん以外にあるのは、講義用のテキストと
100冊ほどの文庫本とラジカセだけだった。
<クリスマス・イヴの夜になにかがあると期待して出かけたんだが...。それにしても、もう少ししたら故郷に帰るとは言え、
  4年足らずの間だけど、こんな下宿でよく我慢できたもんだな。来年の4月になったら、 中学生を教えることになるんだけれど、
  うまくやっていけるだろうか。最近の中学生の興味の対象は多岐にわたっているというのに、ぼくの興味は未だに本が中心なのだから。
  でも偉そうなことを言えない。学生の分際では高価な本を購入するわけにいかず、書店で文庫本を購入するくらいしかできないのだから。
  古書店にもよく行くが、以外と高価なものが多くて見送ることがほとんどだ。でも、今日は、昭和25年に刊行された『クリスマス・カロル』
  ディケンズ著 安藤一郎譯を購入できた。500円と新刊本よりも割高だったけれど、3ページ目 にある「はしがき」になんとなく引かれて
  購入したのだった。正直言って、日本文学ばかりを読んできた僕には19世紀のイギリスを頭に描きながら話を読み進めるのは骨が折れる
  ことだろう、と思っていた。でも、決してそんなことはなかった。読み始めるとディケンズの語り口のうまさの虜になり、4時間ほどで
  読み終えることができた。『クリスマス・キャロル』は ディケンズの作品の中で最も愛されている作品と言われるが、然りというところだな。
  久しぶりに面白い本が読めたし、今日はいい夢が見られそうだぞ>
大西は半分に畳んであった敷き布団と掛け布団を広げるとその中に潜り込んだ。5分もしないうちに彼は夢の中に入っていった。
彼は起きてしばらくは鮮明に残る夢をしばしば見るが、その時の夢もそうだった。もやもやしたガスのようなものが晴れるとそこには
古書店の店主が立っていた。
「やあ」
「やあって、あなたはどこかでお見かけしたような気がしますが、どちらさんですか」
「どちらさんなんて、水臭い。週に1回はお会いしているじゃないですか。 でも、こっそりお教えしますが、実は、わたしは古書店の店主
  ではなく、本の精なのです。本を読んでいる最中に現れることもできるのですが、インパクトが強すぎるので、このように夢の中に
  人の姿を借りて現れることが多いのです」
「本の精?それって、なんなんですか」
「ひとつの本にひとつ、人間と同じように本には魂が宿るのですが、その読者が自分のことを気に入ってくれているとわかると、本の精となって
  夢の中に出てきたりして、その読者とお話をするんです」
「でも、ぼくが購入したのは古書だし、前の持ち主の前にすでに現れたんじゃないんですか」
「いいえ、前の持ち主はそれほどわたしを気に入ってくれませんでいた。別の翻訳がいいと言って、そちらばかり読んでいました」
「それで、その本の精さんが僕に何の用なんです。『クリスマス・キャロル』の4人の幽霊のようにさみしいぼくの心に希望の光を灯して
  くれるんですか」
「まあ、そういうことになりますか。でも、わたしにはディケンズのようなイマジネーションはありません。なので、あなたのこれから選択する
 道のことをほんの少しだけお教えすることにしましょう。それでは、わたしに掴まってください。夜間飛行をしますから」

最初の闇が遠ざかり曙光が見えだすと、本の精はぐんと加速した。日本各地を旅したが、札幌でオリンピックが開催されていたので、大西が
中学生の頃の風景であることがわかった。やがて眼前に帰路についている中学生の大西が現れた。
「本の精さん、この頃の自分をこうして眺めることになにか意味があるのでしょうか。確かこの頃、わたしは体育系のクラブの練習についていけず
 退部して、成績もよくないため将来に不安を感じていた頃ですのに。おや???おかしいな」
「どうしたんです、なにかありましたか」
「いや、ぼくの家は確かあっちのはずなんだが...。うーんと、そうだ思い出したぞ。この日は市立図書館が新しくなったので、行くことにしたんだ」
「そうですか、思い出されたのですね。で、どうでした、面白そうな本が見つかりましたか」
「いいえ、そういうことはありませんでしたが、多くの本に囲まれていると自分が高揚した気持ちになるということがわかりました。妙な言い方
 かもしれませんが、それぞれの本から私を読んでと言われているようで、なかなかそこを立ち去ることができないでいた気がします。そう、
 2、3時間そこにいて、いろんな本を見て、それから帰ったんでした 」
「そうでしたか。わたしたちに興味を待たれたということですね。それで、わたしたちは、あなたのなにかお役に立ったのでしょうか」
「ええ、それは言葉にしにくいのですが...。その後、同様の体験を初めて訪れた書店、図書館でしました。本の背表紙を見ているだけでも
  楽しいのですが、手に取ってページをめくるといろんなことが書かれてあり時が経つのも忘れる。僕の本好きのルーツはこの頃だった
  のかもしれませんね。いやあ、すっかり忘れていましたこの時ことを。もしかしたら、この時を境にぼくの生活が変わったのかもしれない。
 なにを頼りに生きていけばよいのかわからなかったのが、突然、それがわかったという感じです」
「そこまで、誉め称えられると少し恥ずかしいですが、そう言われる方はたくさんいます」
「そうでしょう。そうでしょう。そう言えば、僕の今までを省みると、本なしでは、 なにも起こりえなかったような気がします。本で知識を
  蓄えてこそ、実りのある人生を築き上げることができるのだということがよくわかりました」
「それじゃー、あなたがこれからすることもわかりましたね」
「 ええ、もちろん。僕は、そのことをわかりやすく生徒たちに伝えないといけませんね。それがあなたたちへの恩返しになるのですから 」
「そのとおりです。わたしはこの辺で失礼します。夢から覚めたら、古書店の店主をわたしだと思って、駄弁りに来てください。じゃあ、また」
目を覚ました大西が窓の近くに積み重ねられた本を見ると、差し込んだ朝の光に照らされた本は輝いて立派に見えた。