プチ小説「耳に馴染んだ懐かしい音 8」
二郎が四条通を歩いていると四条烏丸の交差点のあたりで、聞き慣れた声が聞こえた。そちらを見ると森下さんのおばちゃんがいた。
おばちゃんは30代くらいの女性と一緒にいた。二郎は言った。
「おばちゃん、ご無沙汰しています。この前の演奏会はどうでしたか、ぼくは仕事が忙しくてどうしても行けなかったのです。確か、
ドヴォルザークのユモレスクとボギー大佐を演奏すると言われていましたが、どうでしたか」
おばちゃんは隣の女性に気を使っている様子だったので、次郎がその女性をよく見ると妊婦だった。おばちゃんは困った様子を
しながら、それでも 、
「そうね、80点位の出来だったかしら、今年は大好きな曲だったので、たっぷり時間を掛けて練習したのよ」
と言った。
「ねえ、おばちゃん、ぼく、少し相談に乗ってほしいことがあるんだけど、実は、ぼくもクラリネットをしてみたいと思っているんだ」
おばさんはますます困った表情になって、隣にいる女性の顔を見た。
するとその女性はにっこり笑って、二郎の方を見て言った。
「二郎君って、言ったわね。実は、私は森下さんのクラリネットの先生なの。今から、私の生徒の有志が集まってこの前の発表会の
打ち上げ会をするの。この前の発表会、ご苦労様って、労うわけ。その時にクラリネットの楽しい話が聞けるかもしれないわ。将来、
私たちの仲間に入るかもしれない人が、会に参加することに文句を言う人はいないと思うわ。森下さんも賛成ね」
先生の意外な話におばちゃんはしばらく言葉が出ない様子だったが、にっこり微笑んで、じゃあ、行きましょうかと言った。
打ち上げ会は昼食会だったので、お酒が入らなかった。そのためか9人の女性は、緊張した表情で黙々とごはんを食べていた。二郎は
おばちゃんだけに話をするわけにいかず、この沈黙を破るネタがないものかと向かいに座った先生の様子をうかがっていた。
しばらくすると、二郎の杞憂もすぐに晴れた。先生はみんなの食事が8割方進んでいるのを確認すると、話し始めたのだ。
「みなさん、本日は打ち上げ会に参加していただき、ありがとうございます。今日お集まりいただいた方々は私がお教えしている生徒
さんたちですが、レッスンで一緒になることもありませんので、こういう機会をつくって、みなさんが知り合いになっていただくのも
いいかなと思いました。私は産休で来年の2月か3月までお休みに入ります。今日でみなさんとひとまずお別れになるので、 しばらく
お留守番をお願いします。それでは、自己紹介を兼ねて、お名前、出身地、クラリネットに関する話題などをお話しください。それでは、
特別参加の森下さんのお知り合いの男性からお話していただきましょう」
二郎は話しだす切っ掛けをもらったので、勢いづいて話しだした。
「今日は、みなさんが親交を深める貴重な場に同席させていただき、本当にありがとうございます。この機会を持てたのも、先生の
ご配慮のお陰で、いつも このように生徒に心を配られている先生にご指導いただいていることは、きっと幸せなことなんだろうなあと
思います。私は社会人の2年生で、ゆっくりレッスンを受ける余裕はないのですが、楽しそうにレッスンや発表会のことを話す森下さんの
おばちゃんを見ていると、クラリネットの魅力とは一体何なのかということが知りたくなったのです。それで、先程、おばちゃんに
出会った時にそのことを尋ねようとしたのですが、先生に…」
一通り自己紹介が終わった後で、先生は話した。
「私は、高校まではみなさんと同じように一般の高校に行っていました。大学は音楽大学でした。そしてその後ずっと音楽のことを
しています。私は生徒を教える以外にもコンサートをしたりしていますが、でも、仕事をしながらレッスンを続けておられるみなさんを
すごいと思っています…。どうしました、森下さん」
おばちゃんは、先程から目にハンカチをあてていたが、しばらく涙を拭うのをやめると言った。
「ううっ、先生、余りな謙遜はやめてください。私たちは先生の指導を受けることができたお陰でそれぞれ自分なりの目標を達成でき
たんです。こちらの方達は7年間熱心に先生のご指導を受けたお陰で、弦楽器と共演してモーツァルトの室内楽を演奏できるまでに
なっています。私も50歳になって以前からその音色に憧れていたクラリネットを始め、5年近く習った今ではゆっくりした曲なら
きれいな音で演奏することができます。先生のご指導は時に厳しいけれど、中学高校とブラスバンドを経験したハイレベルの人でも
私のような初心者でも安心してついて行ける案内人なのです。お蔭様で、今まで道に迷わず、クラリネットに打ち込めたのです」
森下さんのおばちゃんが、先生や同席した生徒に別れを告げると二郎は言った。
「でも、おばちゃんはいい先生に出会えてよかったですね。来年の4月には先生が復帰されるから、ぼくも習おうかな」
「そうね、二郎君は若いからあっという間に私を追い抜いてしまうんじゃないかしら。でも、その前に、今の仕事がずっと続けられる
ように頑張らないといけないわね」
「そうですね。がんばります」
ふたりが空を仰ぐと晴天にぽかぽかした光を放つ太陽の色が加わり、2月1日の空なのに少し紫がかって見えた。