プチ小説「たこちゃんの冬眠」

ハイバーネイション ハイバーナシオーン ヴインターシュラフ というのは冬眠のことだけど、これだけ寒い日が続くと布団から出るのが
億劫になる。起きる前からストーブを点けるのは危ないから、寒い中、素早く部屋着に着替えて出かける支度をすることになるんだ。
そんなんだから、寒いのを我慢して出勤の準備をするより、そのままずっと布団の中に潜り込んで冬期のツキノワグマように過ごしたい気が
することが屢ある。最近体力が落ち、体調が悪くなっていることも実感している。年々自分の年が重なり体力が衰えて行っているのを実感する
のが、毎年この頃なんだ。ぼくは中年と言われる年齢になってからは、筋力トレーニングに励んできたので、このまま70才くらいまでは
ぴんぴんしていると思っていたのにこの為体だ。2010年に槍・穂高の登山を最後に、3000メートル級の山に登っていない。トレー
ニングで登っていた比良山にも行く回数が減ってきて、昨年は結局2回で終わってしまった。背筋も毎日出勤前に1500回していたのに、
昨秋五十肩で一時全くできなくなってからは週末に2500回するだけになってしまった。この調子では朝の腹筋もしなくなるのではと
心配になってくる。2011年10月3日に 『こんにちは、ディケンズ先生」を出版したが、出版の半年前くらいから、この本をなんとか
たくさんの人に読んでもらい、ディケンズという偉大な作家を知ってもらおうと ぼくは頑張ってきた。出版と営業活動のために槍・穂高の
登山は諦めたが、それがだんだん登山に対する情熱を失わせ、そうして 他の山の登山も興味を失いつつある。登山の途中でへたらない
ためにと腹筋や腿上げに熱心に取り組んできたが、最近は 腰痛が出たら困るから、20分だけ腹筋をして鍛えておこう。腿上げは春になって
登山シーズンが始まったら、またやろうと考えるようになった。 このままでは来年か再来年になって、槍・穂高への登山を再開しようと
思っても不可能と諦めざるを得ないような気がする。 駅前で客待ちをしているスキンヘッドのタクシー運転手はもう70才近いと思うが、
相変わらず武芸の猛者のような風貌でこちらを睨んでて、相手を怯ませるだけの迫力がある。どうしたらそうなれるか訊いてみたかったけど、
今そこにいるから訊いてみよう。「こんにちは」「 オウ ブエノウディアス エンエステプントディフェレンシアモスウステイヨ」
「ほうどういうところがですか」「そらあんた、わしが70近うなってもこうしてられるのが、スクワットを5000回したとか、
腕立て伏せを200回したとかのおかげやと思うとるんやろうが、そうやないんやで」「ぼくは鼻田さんの体型を見ると、かなりの筋力
トレーニングをしないと維持できないと思っていましたが、そうではないのですか」「それはそうなんやが、根底に深い理由があるんやで」
「ほう」「それはやな、タクシードライバーの仕事を楽しんでしとるからなんやで」「もう少しわかりやすく説明していただけると有り難い
んですが」「つまりやな、仕事が楽しいからいつまでも続けたい。そのためにはお客さんに迷惑を掛けんようにせなあかんというところから
出発しとるということや」「なるほど」「わしが体調を崩してお腹をぐるぐるゆわせてて、それでお客さんが安心して乗車してくれると思うか」
「いいえ、それだと落ち着かないですね」「わしが家庭のことで悩んでいて、暗い顔をしとったら、隣に止まってるタクシーに乗り込まはる
やろ」「そうですね」「夜中やったら、突然、暴漢に襲われて、お客さんを守らんならんこともあるかもしれん」「そ、そんなことも考えて
おられるんですか」「そうやで、そういうことを考えたら、自然と自分がやらんとあかんことがわかってくる。日々健康に注意して、家族を
大切にし、自分だけでなくお客さんを守るためには相手を打ち負かすような技も身につけなあかんということが...」「それがプロ意識なん
ですね」「そうや、そのとおりや。船場はんの場合は、仕事を持っとるから、しゃーないんかもしれんけど、自分の小説に自信があって、
なんとか注目を浴びたいと言うんやったら、もっと根本的なことまで遡って対策を考えた方がええんとちゃう」「で、どうすればいいん
ですか」「そら、どこへ出ても恥ずかしくない...」「鼻田さん、それは無理というものです。頭髪もほとんどなくなってしまいましたし、
最近、本ばかり読んでいるものだから目の下に隈ができてしまって。それに何より昔から自分の顔に自信が持てないんですから」
「ちゃうちゃう、船場はん、わしが言いたいんは外見やのうて、知識のことや。あんたは文豪ディケンズの入門書のような小説、ほらほら、
なんちゅーたかな」「『こんにちは、ディケンズ先生』船場弘章著 近代文藝社刊のことですか」「そう、その本を出したんやったら、
あんたのお客さんに当たる読者の皆さんにそれ以外のサービスができるよう、考えなあかん」「例えば」「そうやなー、もっと
西洋文学の知識を深めておくとか、ホームページでユーモア小説をたくさん書くとか」「それなら、少しは頑張っているのですが、
今後はもう少し頑張ってみたいと思います」「よし、その意気や。ほたら、そのためのファースト・ステップを始めるでぇー、そうや
今日はな、新メニューを用意してるんや。わしの後について来るんやで」と言って、ラジカセで坂本九の「レッツ・キッス」(レットキス)
を流して踊りだしたので、ぼくは鼻田さんの肩に手のひらを乗せて続いたのだった。