プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生255」

小川が自宅のチャイムを鳴らすとアユミが出てきた。横から大川も顔を出した。小川が尻込みしていたので
秋子が笑顔で応えた。
「こんばんは、おふたりお揃いなんて久しぶりね。何か用かしら」
「秋子さん、そうなんですよ。また、転勤が決まりましてね」
「ま、まさかと思いますが、転勤先は名古屋ではないでしょうね」
「いやあー、まいったな。秋子さんの勘が鋭いのはわかるけど、まさか、小川さんに当てられるとは」
「......」
「あまりに話が出来すぎているので、眉につばをつけないといけないかな」
「あなた、私たちを嘘つき呼ばわりするのね」
そう言って、アユミが小川の胸ぐらを掴んで持ち上げたので、桃香が驚いて、先生、お父さんが何かしたの
と言った。
「そうよ、こ、こいつはいつもこんな感じで、私を挑発するのよ。桃香ちゃんも大きくなって、こんなんに
 なっちゃ駄目よ」
「お父さん、ほんとにそうなの」
「まあまあ、それぞれ言い分はあるでしょう。ここは私に免じて、仲直りしてください。ぐぇっ」
「あなた、最初から仲の悪いもの同士が、仲直りできるわけないでしょ」

秋子がお茶を入れると生姜煎餅の効果も現れて、アユミは落ち着いてきた。
「さっきは、本当に失礼なと思ったけど、なぜあんなことを言ったの」
「私が説明するわ。さっき、ベンジャミンさんと会って桃香のこれからのことで話が出たのよ。ベンジャミンさんは
 音楽の勉強をするんだったら、面倒を見てあげよう。名古屋においでと言われたの」
「そうか、それで名古屋の転勤があまりに小説のような筋書きなので、眉につばといったんだ。どうだ、アユミ、
 小川さんは、そういう意味で言ったんだよ」
「わかった、小川さん、今日のところはあやまるわ。ごめんなさい」
「いいえ、いいんです。ぼくももうちょっと別の言い方をすればよかった」
「たとえばどんなの」
「そ、そうですね、信憑性を疑うとか」
「今度、そんなことを言ったら、私、元に戻るから」
「まあまあ、で、おふたりはどうお考えなんです」
「そりゃー、こういうのは本人の意志の問題で、本人が希望するなら、それを叶えてあげるのが親として...。どうだい、桃香」
「私は音楽が好き、ベンジャミンさんも好き。でもお父さんやお母さんと離れるのはさみしい」
「深美はそれこそ怖いもの知らずのところがありますが、桃香は甘えん坊のところがあるから。でも桃香、安心しろ、
 大川さんとアユミ先生も 名古屋に行かれるということだから、心配事があったらすぐに訪ねるといい」
「私は名古屋で音楽教室の講師をやってみようかなと思っているの」
「じゃあ、困ったら、そこに行けばいい。桃香、どうだい」
「わかったわ」

大川とアユミが帰ると、小川は書斎に入り布団を敷いて横になった。しばらく自分の娘二人の将来を考えていたが、
すぐにディケンズ先生が待つ夢の世界に吸い込まれて行った。
「やあ、小川君、元気にしているかい」
「ああ、先生、ぼくはいろんな人に支えられて幸せな人生だなと思っています。このままいつまでも...」
「いいや、そういうわけにはいかないさ。よく言うじゃないか、人生山あり谷ありと。自分だけの人生なら、
 自分がしっかりしていればいいんだが、小川君の場合は秋子さんと二人の娘さんがいる。この一緒の船に乗っている
 家族をどのように導いて行くかも大切なんだ。秋子さんは心の強いしっかりした人だが、娘さんたちはまだまだ。
 それから小川君にも苦手意識があるじゃないか 」
「仰る通りですが、これから何かあるのですか」
「もちろん。近い将来、アユミさんと究極の戦いをすることになる。その際、今読んでいる、『ニコラス・ニクルビー』の
  主人公の言動が参考になると思うから、是非、参考にしたまえ」
「先生っ、究極の戦いって、一体...」
「そ、それはその時のお楽しみということで、楽しみにしていたまえ」