プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生257」

小川は相川から来た手紙を開封すると、いつも通り原稿用紙に書かれた小説を読むのは後にして、便箋に書かれた
文字を読み始めた。

小川弘士様
早いもので、深美ちゃんが東京に出発されて3ヶ月が経過しました。ロンドンにいる時はしばしば深美ちゃんと
会っていたので、ぽっかり穴があいてしまったようで、さみしい気持になることがあります。それでももうすぐしたら
日本に帰れると思いますので、その時には今まで通りに家族同士の親交を深めてゆきたいと思います。
この前のベンジャミンからの手紙で、桃香ちゃんがベンジャミンのところでヴァイオリンの英才教育を受けることになり
近く名古屋に桃香ちゃんだけが行くことになったと知りました。と思っていたのですが、昨日届いた大川さんからの
手紙では名古屋に転勤になり、ご夫妻で名古屋に行くと書かれてました。きっとおふたりは桃香ちゃんのために
日常生活だけでなく、音楽教育についても骨を折ってくれることだと思います。私も名古屋に出先機関があれば
そこで働くのですが、残念ながらありません。それでも日本に戻ったら2ヶ月に1度はベンジャミンのところへ
行こうと思っています。
桃香ちゃんはしっかりしているとは言え、まだ中学生なんですから、ご両親がしっかり支えていただくよう私からも
お願いしておきます。将来、大きな花を開かせるためには、今が大事だと思います。時間を有効に使う方法を
会得することがなにより大切ですが、ベンジャミンは時間の管理がきちんとできるので、小川さんが期待される
以上の成果を上げてくれると確信しています。あとはアユミさんが好まれる天才的な手法を身につけることが
できれば、近い将来に日本を代表するヴァイオリニストとなり、大学を卒業する頃には世界に羽ばたくことに
きっとなると思います。
                             相川 隆司
<いつもながら、相川さんの指摘は鋭い。まるでぼくが夢の中でディケンズ先生と交わした会話を知っているかのようだ。
 とにかく大川さん、ベンジャミンさん、どちらも大切な友人なのだから、アユミさんをなんとか説得して
 桃香をきちんと導いてやらねば。では、小説を読むとするか>

「石山はしばらくあんぐりと口を開けて俊子の母親を見ていたが、暗い夜道の闇の中に俊子の母親の姿が消える前に
 なんとかしなければ、一巻の終わりだと思った。あたりを見回すとバナナの叩き売りのおじさんのような格好を
 した60才くらいの男性がリヤカーを引いているのが目に入った。石山は、駄目で元々と思い切って交渉してみた。
 「ご、ご主人」その男性はまさか俺のことではないだろうと周りを見ていたが、石山が自分の方を見ているのに
 気付き、返事した。「やあー、あんた、わしぁー、そんなええもんやねぇで。きっと、なにか魂胆があるんじゃろ。
 えんりょうせんでもええけ、言ってみんしゃい」「実は、わたしはいま人生で最も大切な...」「御託はええけ、
 用件だけを言ってみんしゃい」「わかりました。実は、非常に言いにくいことなのですが、あなたのリヤカーを
 貸していただきたいのです。前を走る女性に追いつくためにリヤカーが必要なんです」「いいよ。でも、
 借りてる間は、そんな服は却って邪魔じゃろう。わしがそのこっぽりと一緒に預かっちゃろう」「わかりました。
 でもこの服は一張羅なので、差し上げるわけには行きません。服と靴はお貸ししますが、必ず夕方5時には
 ここに戻りますので、お返しください」「よーし、そんなら、このらくだの上下と腹巻き、それから孫から
 もらった体育館シューズを貸したるで、ほれ。..........。よし、着替えたな。じゃあ、わしも午後5時にはここに
  来るけ。あんたも」「もちろん、この格好で夜行バスに乗るわけには行きませんので必ず戻ってきます」
  と言うが早いか、石山は荷物をリヤカーに乗せ、俊子の母親の後を追った」