プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生259」
小川が帰宅すると、深美も家に帰っていた。秋子はアンサンブルの仲間と音大で稽古していて、不在だった。
今日はベンジャミンも、名古屋から稽古の会場に来る予定とのことだった。
「お父さん、案外早かったのね。手紙の返事と小説を書いて、相川さんに送るって言っていたけど、できたの。
確かそれから、ヴィオロンに行くと言っていなかったかしら」
「朝、出る時にはそう言ったけれど、深美とふたりで話をしたいと思って帰って来たんだよ」
「ふーん、私は別にお父さんに話したいことはないけど...。それって、将来のことなの」
「まあ、近い将来のことについてさ。今、高校3年生に編入して、日本の高校生活を楽しんでいるんだろうけど、
うまくいっているかい」
「そうね、友達もできたし、私がピアノの勉強でイギリスにいたということを話したので、私のピアノを聴きたい
という先生や生徒がたくさんいるわ。今のところ、秋の文化祭で演奏させていただくことになっているわ」
「そうかい、それを聞いて安心したよ。それじゃー、もう少し先のことだけれど」
「大学受験のことね。それなら、夏休みに入ったら、勉強を始めようと思うの。私の学校の一番の親友が京都の
大学を受験すると言っているので、私と同じ大学を、つまりお父さんたちの出身校でもあるんだけれど、
受験しましょうと言っているの。そうだ、彼は私と違って、お父さんたちと同じ法学部を受験するのよ」
「か、彼って...。手の早いやつがいるんだな」
「ふふふ、お父さん、想像力が人一倍あるからと言って、乱用しないで。それは自分のことだけにしておいてね」
「......。ところで、桃香のことなんだが、深美はどう思う」
「それって、ベンジャミンさんにつくのがいいのか、アユミ先生につくのがいいのかという話でしょ」
「ど、どうしてそれがわかったんだ」
「だって、アユミ先生は私が、今から5年後に大学を出るまでは、学業に専念して練習は必要最小限だけひとりで
しますと宣言したものだから、熱心に指導できる生徒は桃香しかいないと思ったみたい。それからはご主人に
名古屋で勤務できるよう、会社に頼めと言ったり、名古屋にいる音大の同級生にヴァイオリンを指導できる人を
捜してもらったりしたらしいの」
「......」
「このことは私がイギリスに行く時にお世話になったアユミ先生の先生から聞いたんだけれど、その先生は言っていたわ、
応援してくれる人はたくさんあった方がいいし、いろんな先生の指導を受けるのもいい。でも、同じ時に二人以上の
先生に教えてもらうのは、やめといたほうがいいよと言っていたわ」
「ほう、それはなぜだい」
「クラシック音楽の解釈というのは、人によってさまざまでしょうし、さらに技術、技巧となるとさらに違うんじゃない
かしら。そうした違う解釈や技術、技巧を一度に複数の先生から教えられると混乱するんじゃないかしら
」
「深美の考え方だとふたりの先生が桃香の奪い合いをするみたいだが、お父さんはそうは考えていないよ」
「アユミ先生のご主人や相川さんもいるし、私たち家族も時々は名古屋に行くのだから少しは歯止めになるかも
しれないけど、アユミ先生は、思い込んだらとことんまでやる人だから、共存は難しいと思うわ。いつかはお父さんの
鶴の一声が必要になるかもしれないわよ」
「そうだね、明日からせいぜい発声練習をしておくよ」