プチ小説「夜の公立図書館で」

大学を卒業した大西は関西のある政令指定都市の中学校で勤務することになったが、彼の楽しみは大学時代と変わらず読書だった。
本を愛読していると、クリスマス・イヴの夜に夢に出て来た本の精がもう一度夢の中に現れるのではないかと期待して日々を過ごしていた。
仕事に慣れると、勤務先の中学校の近くにある公立図書館に通うようになっていた。大西は仕事が早く終わると家に帰る前に図書館に寄り、
午後8時の閉館まで満ち足りた一時を過ごすのだった。
<今日は、この前、第20章まで読んだ『ニコラス・ニクルビー』の続きを読もうと思ったのだが、棚にはなかった。 貸出しはしていない
  ようだから、誰かが館内で読んでいるのだろう。大学4年生のクリスマス・イヴの日に文豪ディケンズの『クリスマス・キャロル』を
  読んでから、すっかりディケンズ・ファンになって、いくつかの文庫本を読んだが、この図書館にハードカバーの『ドンビー父子』
  『ニコラス・ニクルビー』 があることを知り、購入が難しいこれらの本を日々少しずつ読んで、しばらくの間は楽しい時間を過ごせる
  と思っているのだが...。まさか、この町にぼくと同じようにディケンズの『ニコラス・ニクルビー』を平日のゴールデンタイムに
  読む人がいるとは思わなかった。仕方がないから、本が棚に返されるまで『ドンビー父子』を少し読んでおこうか。 おや>
大西が席を探して館内を歩き回っていると、自分の倍くらいの年齢の会社帰りらしい紳士が『ニコラス・ニクルビー』を読んでいるのが
目に入った。ちょうど隣の席が空いていたので、大西は軽く会釈して腰掛けた。その紳士はにっこり笑うと読書を続けたが、ある箇所に
来ると、感極まったように、ううっと声を出した。最初はどうしたんだろうと紳士のことが心配になったが、紳士が読んでいるところが
この前に大西が読んだところで心当たりがあったので、大西は勇気を出してその紳士に声を掛けた。
「お楽しみのところ、誠にすみません。あなたもディケンズのファンのようなので、みなさんが静かに読書されているのにもかかわらず、
 声を掛けてしまいました。今、読まれている、『ニコラス・ニクルビー』のそのニコラスとスマイクの会話の場面、とてもいいですね」
 紳士は最初、若者の不躾な行動に疑問を感じたが、若者の友好的な笑顔に高ぶった感情が緩和された。そうして若者が言っていることが
 事実なので、そのとおりだねと答えた。
「ここには、こう書いてある。『「サヨナラだったら」とニコラスは少年の肩にがっちり手を掛けて言った。「僕からは決して言わないぜ。
  だって僕には君しか、慰めてくれたり、頼れるやつはいないんだからな。僕は今じゃ、スマイク、世の中の宝をやるって言われたって、
  君を手離したりはしないぜ。今日だって、君のことが頭の中にあるからこそ、あんなに辛い目に会っても持ちこたえられたんだし、
  これからだって、今日の50倍辛い目に会っても持ちこたえられるだろう。さあ、握手だ。僕のハートと君のハートは一つだ。一週間も
  しない内に、一緒にこの町を出よう。腹をすかしどおしだからって、どうしたってのさ?君さえいればへっちゃらだし、腹ペコ同士、
  お互い腹をすかせ合ってりゃいいじゃないか」』 (『ニコラス・ニクルビー』田辺洋子訳 こびあん書房 312〜313頁から)
  これは、実にじんとくる、友情の言葉だ。こんな話を聞いて、心を動かさない人はいないだろう。私もスマイクの気持ちになって、
  心を動かされて、思わず声を出してしまった」
その紳士は楽しそうに大西に話しかけていたが、自分も静かなところで大きな声を出していることに気づいた。
「まあ、ここでは長い話はよしたほうがよさそうだ。君がよかったら、本を棚に戻して外に出ることにしよう」
「ええ、喜んで。もともとあと1時間はここにいるつもりでしたから。時間はあります」

外に出ると、道の向かいに喫茶店が見えたので、ふたりは入ることにした。
「ぼくは、近くの中学校で英語の教師をしている大西と言います」
「そうか、先生なんだ。私は一応会社員と言っておこう。でも、なぜ君はこんな時間に図書館にいるのかな」
「そうですね。仕事が趣味と言う人たちがいますが、ぼくは読書が、読書だけが趣味なんです。これは私が大学時代に貧困に喘いでいて
 他の趣味が持てなかったからで、ある意味それは幸運なことだったと今では思っています。 最近は、ディケンズの小説ばかりを
  読んでいるんです。ここの図書館に、『ドンビー父子』と『ニコラス・ニクルビー』があるのを知り、帰宅前の時間を楽しくしよう
  と思って、最近は仕事の帰りにこの図書館に来ているんです 」
「借りたら、もっと長い時間読むこともできるだろうに」
「確かにそうなんですが、ぼくはこうして本に囲まれているとなんだか宝の山に囲まれている気がして、とても豊かな気持になるんです」
「そうか、君が言うこともわからないでもないな。特にディケンズはもっと読まれてもいい作家だと思う。彼の小説には随所に宝が
 あるからね」
「宝ですか...」
「さっきの会話もそのひとつだよ。彼の作品の中で、登場人物同士の会話がきらきらと宝飾品のように輝く時があるんだ」
「へえ、そうなんですか」
「まあ、あまり説得力がない、単数無力説かもしれないが...。私はそんな会話に出会わないかなと、ディケンズの小説を読む時は思っている」
「ぼくも単数無力説を持っています。『クリスマス・キャロル』のどの場面が、あなたはお好きですか」
「そうだなー、あまりにたくさんあって...。過去の幽霊に連れられて、昔の恋人を懐かしむところかな」
「ぼくは、スクルージが4人の亡霊から教示を受けて、眠りから覚め、近所の子供と会話を交わす場面がとても好きなんです。改心した
  老人と無垢な子供との会話がとても新鮮な気がして。ぼくはここがとても重要な場面と確信しているんです。ごめんなさい、
  あなたのようにうまく説明できなくて 」
「いや、とてもよくわかるよ。それに本を読んで感動することは年齢によって変わってくる。君が今読んでもわかりにくい、例えば、
 『大いなる遺産』のジョーの気持ちや『二都物語」のシドニー・カートンの気持ちも、私の年齢になれば、よく理解できるようになる
  かもしれない」
「そうですね。大切なのは読書を続けることですよね」
ふたりが外に出ると、これ以上ないほど月齢の少ない月が出ていた。大西は、自分の知識はきっと今はこれくらいだろうが、いつかは
この男性のようにディケンズについて自分なりの見解を話す時が来るのだろうかと思った。
その本の精に似たところのある会社員は、大西が、ふとそのことを思い出し、さようならを言おうと横を見ると、いなくなっていた。
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