プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生263」

小川が7人を代表して玄関のチャイムを鳴らすと、アユミが玄関の扉を開けた。ふたりは戦闘前のプロレスラーのように
向かい合って竦んでいたが、裕美と音弥が、お母さん、どうしたのと言ったので、仕方なくアユミは客たちを家の中に入れた。
「アユミさん、今日、こうしてみんなでここにお伺いしたのはお話があってのことです。実は、桃香のことなんです」
「ふん、あんたが言いたいことはちゃんとわかっているわ。あなた、私のやってることが気に入らないって言うんでしょう。
 でも、私がやることに間違いがないことは、あなたの娘さんが成功したということで証明されていることだし、音楽教育の
 部外者のあなたに偉そうに指示される筋合いはないわ」
「確かにおっしゃる通りですね...」
「お父さん...」
「あなた...」
「小川さん...」
「オガワ...」
「いやいや、今日はあなたと口論をしに来たのではありません」
「それじゃあ、私と勝負するというのね。なんなら、そこにいる主人とタッグを組ませてあげるわ。さあ、かかってきなさい」
「まさか、本気じゃないでしょう。こうしてみんなで来たのは、話し合いをしたいと...」
「何を話すと言うの。上手いこと言って、私の意志を曲げさせようと...」
「それは違うわ、アユミさん」
「秋子、あなたもふたりの娘さんも、このよったりの言い分に賛成なの」
「ええ、でもそれを受け入れるかどうかはアユミさんが決めればいいことじゃない。とにかく話を聞いてちょうだい」
「わかったわ。でも、嫌なものは嫌と言うから」
「それでは順番に話して行きましょう。私は、二人の娘の教育を秋子に任せて来ました。休日も出勤しなければならない
 サラリーマンには、子供の教育に助言をする機会はありませんでした。そういうわけで、二人の 娘の教育は秋子がしてきました。
 幸い、秋子が音楽好きなこともあり、音楽性豊かな少女に成長し、深美はすでに頭角を現し、アユミさんの助言を得て
 イギリスで活躍することができました。どうしても日本の大学で文学などを学んでから演奏活動に戻りたいと言って、
 今は音楽活動を中断していますが、大学卒業後は、再びアユミさんや立派な音楽教育者の助言を得て活動を再開したいと...」
「あなた、もっと手短かに話したらどうなの。みんな欠伸をしているわよ」
「私はあなたに、順番に話すといったはずです。最後まで静かに聞いてください」
「......」
「そういうわけで深美がピアニストとしての活動を再開したら、きっと深美はピアニストでありピアノの先生であるアユミさんの
  助言を求めることになるでしょう。このことは間違いありませんので、今ここでお願いしておきます。ところで 桃香のこと
 ですが、こちらは私の友人であるベンジャミンさんがその才能を見込んで中学3年生というのに若年で英才教育をすると
 言ってくださっています。将来性があるから、積極的にできるだけの音楽教育ができるよう骨を折ると言ってくださっています。
 このベンジャミンさんの提案を私たち家族は受け入れ、桃香がその音楽教育を受けられるように名古屋に来させました。
 決してアユミさんに、思い通りに桃香を教育してくださいと言った覚えはありません。私は音楽に関しては門外漢ですが、
 ピアニストとヴァイオリニストは全く異なった音楽的才能を持った人で、ひとりのキャラクターを持った人が同時に
 ピアニストとヴァイオリニストを教育することは無理なことだと考えています。それならその人が得意な楽器演奏の指導に
 専念していただき、もう一方はその専門的知識を持った別の音楽教育者に任せる方がよいと考えました」
「だから、私は桃香ちゃんを諦めろと言うのね」
「もちろん、ただでというわけではありません。アユミさんに断腸の思いをさせるのですから、ぼくも汗をかかなくてはと
 思うのです。それで...」
「何をするの」
「ご主人と相川さんと私とで、モーツアルトの「ケーゲルシュタット・トリオ」をアユミさんの前で演奏できるように頑張ろうと
 思うのです。いつまでも私だけが門外漢のままでは どうかと思いますし...」
「......」
「どうですか、私たちの提案は」
「それじゃあ、1年後にもう一度ここで合いましょう。あなたがどれほど練習したかだけでなく、どこまで到達したかを見て
 合否を判定します。もし駄目なら、あなたは他のみなさんに大迷惑をかけてしまうんですが、それでもいいんですね」
「もちろん、そ、それでいいです」