プチ小説「たこちゃんの謎語」

ミステリー ミステリオ レッセル というのは謎のことだけれど、ぼくはきっと一生追い続けると思う謎があるんだ。
それは人はなぜ笑うか、どういうものが人を笑わせるかという謎なんだ。フランスの哲学者ベルグソンが『笑い』という
本を書いていて岩波文庫から翻訳もでているけれど、ぼくには哲学的思考はできない話だし、生理学的な説明はとても
できないだろうと思う。でもこの人間の心を暖かくする、不思議な魅力のある人間的な営みということについて自分なりに
見解を持とうと努めてきた。といっても今は実例を集めているだけで、まとめる段階には至っていない。ぼくが集めている
のは、あいつはおもろいやつだというのはその対象ではない。放送や出版がその代表格となるマスメディアを介してぼくの五感に
働きかけたものというのに限定される。わかりやすく言えば、ラジオで聴いたり、テレビで見たり、新聞や雑誌で読んだり、
これはほとんどないと言っていいが、世界の名作と言われるものを読んだりして爆笑したものということになる。以前は、
ラジオやテレビでは寄席の中継、新聞や雑誌では読者が参加する楽しい記事なんかがあって、その気になれば一日に何回も
爆笑することができた。またその笑いは増幅されて巷で話の種になったものだった。先日、亡くなられたレッツゴー三匹の
じゅんさんが、あのキューピーさんのような顔に満面の笑みを湛えて、脳天から突き抜けるような声で、「これからはー」
「アーメリカでは」と言われた時には、至福の気持ちになったものだった。そんな感じで、昔の関西のお笑いの人たちは
人懐っこさも自分の魅力に取り入れて活躍したものだった。岡八郎さんの「くっさー」も坂田利夫さんの「よめはんはよほしいわ」
も横山やすしさんの「おっこーるで」も彼らに人懐っこさがあったからこそ、近所のおばちゃんが、しゃーないおっさんたちやな
という感じで笑顔でそのギャグを受け入れたんだと思う。昔はそんな長閑な環境だったんだ。話は変わるがこの笑いの体験を
本で経験させてくれたのが、ディケンズで、『クリスマス・キャロル』のスクルージとマーレイの亡霊の会話のシーンや
『オリヴァー・ツイスト』のオリヴァーが群衆に追いかけられるシーンや『デイヴィッド・コパフィールド』のディックさんと
おばのベッシーのユーモラスな会話や『ニコラス・ニクルビー』のニコラスの母親の脈絡がすぐに他に移ってしまう小言も
爆笑には至らないかもしれないが、少なくともぼくを愉快な気持ちにさせてくれたのは間違いない。駅前で客待ちをしている
スキンヘッドのタクシー運転手は、いつも厳格な顔をしてスポーツ紙を読んでいるが、そんな難しい記事を読んでいるの
だろうか。そこにいるから訊いてみよう。「こんにちは」「オウ ブエノスディアス ノープエドコンテネールラリサデ
アレグリーア」「何かいいことがあったんですか」「そら決まってるやん。競馬で当てたんやがな」「そうですか、で、
どのくらい勝ったのですか」「1,000円や」「そ、それで笑いが止まらないんですか」「そうやがな。朝から一所懸命
スポーツ紙で研究して、3万円遣うて馬券を買ったんや。そしたらなー、今まで取ったことがなかった天皇賞を取ったんやで」
「そうですか」「なんや、あんた、こんなすごいことに関心ないんかいな」「別に」「まあ、船場はんは女の子にも関心が
ないようやし、博打にも関心ないんやったら、勝手に自分の本の売り込みに邁進しとったらええねん」「そ、そんな、見捨て
ないでください」「そうか、そんなら、今でも女性に対する情熱を持っているというやつをここで見せてみーな」「じゃあ、
先生から先に見せてください」「よっしゃ、ほんなら、これでいこかって...。わしがなんでせなあかんねん。あんたがやるんや」
「わかりました。ぼくもここは男らしくしっかりとやります」「よーし、その意気やで」「おねーさん、ぼくとつきあってください」
「まあ、船場さん、いけないわ。こんなところで、はずかしーっ。......。なんで、わしがこんなことせなあかんねん。あんた、
はき違えとるんとちゃう。いつもやっとることをすればそれでええんよ」そう言って、鼻田さんがうさぎ跳びを始めたので、
ぼくも後に続いたのだった。