プチ小説「登山者8」
山川は、青ガレの登りの手前で休息する同年代くらいの男性に少し目をやったが、すぐに視線を前に戻すと
岩場を登り始めた。
<十数年前に、比良登山を始めた頃はここで必ず休息したものだった。最初に登った時はここに来るまで
何度休憩したことだろう。
いつの頃からか一気に比良駅から金糞峠まで登るようになったが、今日は
一年半ぶりだから 金糞峠までもつだろうか。登山は自然に触れて身も心も浄化されるし、健康のために
よいことは間違いないのだが、ここまで身体が鈍ってしまうと蓄積された疲労が尾を引くのが怖くて
連休の最初の日でなければ行けなくなってしまった。昨年の秋はそのせいか、行くのが億劫になって、
ついつい先送りにしているうちに肩に変調を来してしまった。五十肩になって
しまったんだ。でも、
今日は5月中旬だというのに日陰では冷気を感じるくらいで、登山日和だな>
山川は、青ガレを登ったところで8人の男性グループを追い抜いたが、休息充分の彼らは金糞峠の近くまで
来ると、山川の後方5メートルのところまで迫ってきた。
<この金糞峠まであと20分のところがこのコースの最大の難所と言える。ガレ場の急傾斜で、夏になると
湿気で身体がじっとりして体力を消耗させる。今は矢印や丸印でわかりやすくなっているが、今から
十数年前は表示がわかりにくく、何度方向を間違えてしまったことだろう。上級登山者はここを一気に
登って行く。ぼくもそれに憧れ、いまから4年前までは、夏の槍・穂高登山のために鍛えていたので
それができていたのだが、すっかり体力が落ちてしまった。今日は、喘ぎながら休み休み登っている。
あの頃のような軽快な足取りをこれから先に取り戻すことができるのだろうか。さあ、もう少しで
金糞峠だ。どうやら、彼らを振り切れたようだぞ>
山川は、八雲ヶ原長い板でできた歩道を歩いていた。彼はいつもこの近くで昼食を取るのだった。
<ゴールデンウィークの頃なら、シャクナゲが楽しめるので、シャクナゲ尾根や堂満岳へと向かったかも
しれない。でも一昨年来た時はもう少し早い頃だったので、シャクナゲが満開で
地味な比良の山が
華やいで見えたものだった。赤、ピンク、白の花が壁のようになって咲き誇っているところがあって、
いつも時期が過ぎて訪れていたぼくには、きっとこんなに美しいのは1年のうち1日か2日だけ
なんだろうなと思った。今日もイワカガミがあちこちに咲いていたが、去年、ここで見ることができた
ミズバショウの花も散ってしまって、大きな蕊だけが残っている。山では季節ごとに美しい花が咲くが、
最も美しい姿を見られるのは一生に一度あるかないかなのかもしれない。
さあ、いつものように
そこの枕木のような木に腰掛けて、昼食を取るとするか>
山川は、武奈ヶ岳山頂が見える、山頂まであと少しのところまで来て、今日はどのくらいの人が山頂に
来ているかと目を凝らした。
<ここから見るだけでも、20人くらい見える。休日でも、誰もいないことがあったのに、また比良山に
登る人が増えたのだといいな。平日に登って山の中でひとりも会わないで、猿の威嚇するような雄叫びを
聞いただけだったということもあったな。あまり人が通らないと、道がどこだかわからなくなるし
草が生い茂って通行できなくなってしまうことがあるから。......。
もう少しで山頂だが、本当に今日はたくさんの人が来ているな。ざっと数えても50人、いや、山頂の
向こう側にも30人くらいの人がいるから80人くらいか。今日は天気がいいと思っていたが、視界もよくきくぞ。
いつもは霞んで見える伊吹山がはっきり見えるし、どうもその向こうの冠雪している高い山は白山じゃないかしら。
その横にも冠雪している高い山が見えるけれど、まさか立山では...>
山川は、金糞峠から青ガレまでの急な坂を慎重に降り終えると、登る時に男性が腰掛けていた岩に腰掛けて
水筒の水を口に含んだ。
<4年前なら、ここから比良駅まで一気に駆け下りたんだが、今日はそういうわけには行かない。そんなことを
したら、膝を痛めるだろう。それを避けられても、きっと1週間ほど太腿の筋肉痛に悩まされるだろう。
今、ぼくの横を駆け抜けた人は70才くらいだろうが、軽やかに駆けて行った。きっと月に2、3度は
ここに来るのだろう。以前、比良登山の帰途一緒だった60代の男性が、もう多分、これから先はここには
来られないだろうと言われていたのを思い出した。その男性は、車を運転して奈良から来て登山して帰る
というのが問題だったようだが、ぼくは電車で1時間ほどで来られるのだから、その心配はない。
今日は、いくつの初めての体験をしたことだろう。それに雄大な比良の自然に抱かれることで、身も心も
浄化されるのだから、結構なことじゃないかな。また近々にここへ来たいものだな>
比良を満喫した山川は、代わり映えのしない日常が待つ自分が住む町に帰って行った。