プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生266」

小川と秋子は桃香と別れた後、午後8時過ぎの新幹線で帰ることにした。地下鉄のホームで名古屋駅行きの電車を待っている時、
小川は秋子に話し掛けた。
「今日、アユミさんに会ってあれだけ真剣に桃香のことを考えてくれているのなら、桃香のことを任せてもいいんじゃないかと
 思ったんだけど、秋子さんはどう思う」
「私、いつもは小川さんの考えに賛成なんだけど、それには賛成したくないわ」
「どうして」
「それは小川さんがアユミさんに言ったことと同じだわ。桃香にはベンジャミンさんという立派な先生がいるし、自分で演奏した
  ことがないヴァイオリンという楽器の指導を知り合いの先生に依頼するわけでしょう。 深美の時のようにうまくいかないと思うわ。
  小川さんは、譲歩しないで、アユミさんに宣言したことを実行できるように頑張ればいいと思うわ」
「なるほど、そのとおりだね。大変だろうけど、頑張るよ。あっ、電車が来たよ」

名駅まで2駅だったので、ふたりはシートに座らずに周りに人がいないドアのそばで話を続けた。
「アユミさん、約束は守る人だから、きっと明日から1年間は桃香にヴァイオリン の教師を紹介したりはしないでしょう。
 でも...」
「でも、ぼくの演奏が不出来で否の判定だったら、その時はみんなに迷惑を掛けてしまうね」
「そうね、アユミさんは自分に厳しい人だけど、一旦自分で言い出したことを守らない人にはそれは厳しい...」
「秋子さんが言おうとしていることはわかるよ。でもどれくらいの演奏を期待しているんだろう」
小川が考えを纏めようと何げなく窓の外を見ると、ディケンズ先生がいて話し掛けて来た。
「最近、私の出番がなかったが、久しぶりにチャンスをもらったようだね」
「先生、夢の世界から抜け出して、アドヴァイスをいただくのもいいですが、目の前に秋子さんがいるんですよ」
「それは気にしなくていい。彼女は鋭いから、小川君が私からアドヴァイスをもらっていると思ってくれるよ」
「それだといいですけど。で、どうすれば、この窮地を抜け出せますか」
「さっき、ベンジャミンがアユミさんと一緒に演奏したいと言っていた。秋子さんとアユミさんは今回のことがあってからも
 変わらない友人同士だ。大川はアユミさんに頭が上がらないが、仲の良い夫婦だ。相川のピアノ演奏はアユミさんも舌を巻く程で、
 アユミさんも一目置いている。深美ちゃんは大学で勉強するが、入学したら少しはピアノの勉強をするだろう」
「いくつかのエピソードがアユミさんとぼくの周りで同時に進行しているということですか」
「そうだ、君が1年後にアユミさんから及第点をもらうかどうかも、エピソードのひとつだ。真剣に取り組むというのは
 もちろん大切なことだが、普段から視野を広く持って、他のエピソードも上手く行くようにしていれば、相互に関連しているから
 波及して他のエピソードによい影響を与えることだろう」
「なるほど、なんとなくわかりました。レッスンだけではなく、他のことでもアユミさんに好感を持ってもらえるよう頑張ることにします」
「そうだ。君もアユミさんに苦手意識を持たないで、どんどん話し掛けるといい。だが、いつまでも、蚊帳の外ではつまらないだろう。
  これを機にクラリネットもしっかり練習するといい。秋子さんが今まで以上に力になってくれるだろう。夫の窮地なんだから」

「あら、小川さん、何か言った。今、考え事をしていたから、聞き取れなかったの」
「ああ、ディケンズ先生ならどんなアドヴァイスをしてくれるだろうかと思っていたら...」
「アドヴァイスをいただいたのね。どうおっしゃったの」
「ひとつの問題を深刻に受け止めるのではなく、人同士の付き合いはいくつかの側面があるから、そのどれかを糸口にして関係を
 改善すれば、明るい展望が開けると...」
「そのとおりだわ。でも、せっかくの機会だから、クラリネットもしっかり練習してね。応援するから」
「もちろんさ」