プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生268」

小川は久しぶりに仕事が早く終わったので、帰宅前に風光書房に寄ることにした。店に入ると、店主が小川の到着を待っていたか
のようにレコードを掛けた。
「やあ、小川さん、お久しぶり。ところでこの曲、知っていますか。知らない、それじゃあ店内の本でも見ながら、最後まで
 聞いてみてください。20分余りの曲ですから」
「わかりました。じっくり聴かせていただきます」
その後も来客はなく小川は余韻を味わった後、店主が待つカウンターに行った。
「ロマン派の作曲家だと思いますね。ピアノが主役でオーケストラが添え物みたいなところは、ショパンの2つのピアノ協奏曲の
 ようですが...」
「うんうん、それから」
「全体に流れるやさしい甘味なメロディーは雄々しいところが少しもない。男性が作曲したのかな。メロディーはシューマンや
 ブラームスの旋律に似たところもあるなあ。全体的には、シューマンのピアノ協奏曲に似ているかな。そうだ、シューマンの
 奥さんのクララはピアニストで作曲家 でしたね。ピアノ協奏曲やピアノの小品を残しているというのを何かで読んだことがある
 もしかして、クララ・シューマンのピアノ協奏曲ではないんですか 」
「当たりー。そのとおりです。ほんとに初めて聴かれたんですか」
「そうです。でも後半のところはシューマンそのものという気もします」
「おっしゃるとおりです。この曲は13才の頃にクララが作曲した後、シューマンの指導を受け手直しした作品です。シューマンは
 クララが8才の初舞台の半年程前に クララの父親のフリードリッヒ・ヴィークが開催する音楽家の集まりに参加したのでした。
 それから後はクララはシューマンのことを常に好意を持ってながめていたようです 」
「シューマン、ブラームスという偉大な作曲家のそばにいて様々な計り知れない影響を与えた女性ですが、演奏家として彼らに
 どのように接したかということに非常に興味があります」
「そう言われると思いました。実は、前に小川さんが来店された時に、『ブラームス』ガイリンガー著 山根銀二訳を購入されたので、
 この本も興味を持たれるのではないかと思いました。来店したら、くだんの音楽をファンファーレのように掛けてお出ししようと
 思っていたのです」
店主が差し出したのは、この前秋子が話していた『真実なる女性 クララ・シューマン』原田光子著だった。
「おお、これこそ、探していたもの、今日の目的だったのです。もう少し、クララ・シューマンとこの本について話してもらえませんか」
「いいですよ。クララは父フリードリッヒに英才教育を受け、8才の頃から演奏家として活躍しています。当時はリストが自作自演
 して煌びやかな音楽を演奏するのが流行っていましたが、クララは当時ほとんど演奏されなかったJ.S.バッハや ベートーヴェン
 こそ優れた音楽だと確信して、常に演奏会で取り上げたのです。もちろん後に夫となるシューマンのピアノ曲を取り上げ、
 夫が有望な作曲家と思わせたのもクララでしたし、 がさつな田舎者だったブラームスを一流の音楽家にしたのもクララでした。
  原田光子さんは37才という若さで亡くなられましたが、いくつかクラシック音楽の名著を残されています。
  彼女の透明な文体は親しみやすく、心に訴えるものがあります」
「なるほど、でもご専門のフランス文学でもないのによくご存知ですね」
「わたしは大学に入った頃から、大学の近くの名曲喫茶に入り浸って、SP盤やLP盤を聴きながら、クラシック音楽の著書のページを
 めくったものです。山根銀二さんや原田光子さんの著書もそこに置いてあって、当時よく読みました」
「うーん、いい話だな。若い頃に親しんだ本が今でも心に残っているなんて。それも小説ではなくて伝記なんだから。ありがとう
 ございます。この本、謹んで購入させていただきます」