プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生269」

小川は風光書房を出た後、すぐに家に帰らずに名曲喫茶ヴィオロンに寄ってシューマンの曲を聴いて帰ることにした。
「明日は土曜日だから、半日程、会社で仕事をして帰るとしよう。帰りしなに秋子さんから与えられた宿題を会社近くの
 スタジオでやってみよう。そうだ、なれるまでは暇を見つけてはアーティキュレーションの練習をすることにしよう。
  それからさっき購入したクララ・シューマンの伝記もアユミさんと仲良くなるきっかけを作ってくれるかもしれないから、
  暇を見つけては読むことにしよう。でもこの本の活字は今の文庫本の活字が10ポイントとしたら、6ポイントくらい
  しかない。しかも2段だから、300ページ足らずだけれど読むのに時間がかかるかもしれないなあ」
小川が苦悩の表情で原田光子著の本を見ていると、マスターが注文を取りにやってきた。
「今日は、何にされます」
「ホットをひとつ。それから、リクエストを掛けていただけますか」
「ええ、今のところ大丈夫ですよ」
「じゃあ、まずは、ディヌ・リパッティのシューマンのピアノ協奏曲を掛けてください」
「グリーグはどうします」
「そちらはいいです。その代わり、リクエストが入らなかったら、シューマンの交響曲第3番「ライン」を掛けて
 いただきたいんです。セル指揮クリーヴランド管弦楽団のレコードを」
「承知しました」

しばらく小川は音楽に聴き入っていたが、さすがに「ライン」の第3楽章に入ると集中して聴けなくなった。
<やはり、クラシック音楽を集中して聴けるのは、50分くらいかな。クラシックの名曲に40〜50分というのが
 多いのも頷ける。そうだシューマンのことをちょっと思い出してみよう。シューマンは最初はピアニスト志願だったが、
 右手の薬指をいためて夢を断たれた。 そのため作曲に専念することになったんだった。 クララとシューマンが
  知り合ったのはクララの父親が主催する音楽家の集まりでであったが、当時8才だったクララは初対面の時からシューマンを
  慕うようになり、やがてふたりが結婚したのは当然の成り行きだったと言える。 クララの父親はふたりがつき合うのを
 心良く思わなかったので、クララが16才の頃からは父親の目を盗んではこっそり会ったり、人を介して手紙のやり取りを
  するようになる。やがてクララが20才になると父親と離別し、二人はドレスデンで新婚生活を始めることになる。
 シューマンはクララに多くの自作の曲を演奏してもらったが、中でもシューマンが27、8才の頃に作曲した
  「子供の情景」と「クライスレリアーナ」は「謝肉祭」と合わせて、シューマンのピアノ独奏曲の中では傑作と言える。
  シューマンはその後歌曲の作曲も手がけ、クララと結婚する時には「ミルテの花」という歌曲集を最愛の妻に贈っている。
  長女をクララが出産するとクララの父親から仲直りしたいとの申し出があり、シューマン夫妻は落ち着いた生活に戻る
  ことができた。しかしそのころからシューマンは精神的に不安定になり、音楽学校の教授、指揮者、音楽評論家の
  仕事から徐々に遠ざかって行くことになる。 クララはそんなシューマンを励まし、名曲を生み出させた。もちろん
  自身も演奏家としてリストと並び称される一流のピアニストであり続けた。......。この原田光子さんの評伝を読んで、
 アユミさんが身を乗り出して耳を傾けるような話題を見つけることができるんだろうか。ベンジャミンさんも
 アユミさんと一緒に演奏したいと言っていたし、アユミさんとぼくとの間の壁がなくなれば、世界が大きく広がる
 ような気がする。家族のため、友人のため、そして自分の有意義な人生のため、挫けないで頑張るとしよう」