プチ小説「こんにちは、N先生4」

私は出勤前にいつも阪急相川駅前の亜理亜恵という喫茶店で読書をするのですが、ディケンズの小説を一通り読んだ私は、
その日から長年読みたいと思っていた、プルーストの『失われた時を求めて』のハードカバーを読み始めたのでした。
テーブルの上にその銀色の本を置いて開き、左手を太腿の上に置いてから読み始めたのでした。最初に訳者井上究一郎氏の
前書きがあり、第1部コンブレーへと移って行きました。本文の4ページのところで、「ある人が夕食後、肘掛椅子に
腰をかけてまどろむとすれば、そのとき、脱線した自然界のなかに完全な転倒が起こり、魔法の肘掛け椅子がその人を乗せて
時間と空間のなかを全速力で駆けめぐるだろう」のくだりを読んで悦に入っていると、入口のドアを開けて
N先生が入って来られたのでした。私はまさかN先生がわざわざ遠くからこんな早朝にやって来られると思わなかったので、
思わずどうしてですかと尋ねてしまいました。
「ははは、私は今日、この近くの大学で集まりがあってね、以前から君の小説『こんにちは、ディケンズ先生』の主人公が
立ち寄る喫茶店のモデルのこの喫茶店に一度行ってみようと思っていたので、のぞいてみたのさ。そこにうまいぐあいに
君がいたというわけさ」
私はこの喫茶店のことを話した記憶がなかったので、つっこんで尋ねようとしましたが、N先生はそれを制して言いました。
「そりゃー、君、世の中には不思議なことはよくあるんだから、君の近くであったからといっても、疑問に思わないで
  それを受け入れて、話の種ができたと思って喜ばなきゃ」
「そうですか。ところで、この前はお手紙ありがとうございました。その手紙に、イギリス文学に限定せずに『レ・ミゼラブル』
や『モンテ・クリスト伯』のような手に汗握る場面の連続の小説を読まれるのも著作活動によい影響を与えると思いますと
書かれてあったので、今日から、『失われた時を求めて』を読もうかなと思っています」
そうかい、そうかいと言われ、N先生は鞄の中を覗き込んで何かを探されていましたが、これこれと言われて1冊の本を
取り出されました。それは、ディケンズの『骨董屋』北川悌二訳でした。
「君は、この本を読んだかい。確か、ディケンズの翻訳は全部読んだと言っていたから、きっとこの本も読んだだろう」
「ええ、でもあまりに悲しい話なので、1回しか読んでいません」
「君の好きな、『デイヴィッド・コパフィールド』と『大いなる遺産』はそれぞれ3種類の翻訳を読んでいるし、『荒涼館』と
 『リトル・ドリット』は2度ずつ読んでいる。『二都物語』も最近、加賀山卓朗氏の新訳を読んだので、3回読んだことになる。
 一方、『ドンビー父子』『マーティン・チャズルウィット』『ハード・タイムズ』『骨董屋』は一度しか読んでいない。
 君はディケンズ・ファンを公言しているのだから、不公平な扱いをしてはいけないと思うな 」
私はN先生がなぜ私がディケンズの著書をそれぞれ何回読んだか知っているのはなぜなのかと思いましたが、N先生に、
そりゃー、君、世の中には不思議なことはよくあるんだからと言い返されるだけと思い、尋ねるのはやめました。私は言いました。
「そ、それは、好き嫌いは、誰にでもあるんじゃないですか」
すると先生は、右手の人差し指を立てて、まるで車のワイパーのように指を動かしながら、言いました。
「君は、ディケンズの小説を抜粋した台本を11本作っている。未完の『エドウィン・ドルードの謎』の代わりに『クリスマス・
 キャロル』を入れたことは、まあ、許すとして、まだ、『ドンビー父子』『マーティン・チャズルウィット』『ハード・タイムズ』
『骨董屋』と『我らが共通の友』の台本はできていない」
「でも、先生、来年の夏には、『我らが共通の友』を抜粋した台本を作る予定です」
「それは知っている」
「それはなんでですか」
「そりゃー、君、世の中には不思議なことはよくあるんだから」
「そうですか。でも、ぼくなりに頑張っているつもりなんですが...」
「いや、私は決して早い遅いを言っているんじゃないんだよ。『ドンビー父子』も『骨董屋』もディケンズが精魂込めて書き上げた
 小説なんだから、君の好きな『デイヴィッド・コパフィールド』や『クリスマス・キャロル』同様に愛読してほしいということなんだ。
 ディケンズ・フェロウシップの理事の先生の中に全長編小説の台本を待ち望んでいる先生もおられるのだから、君はそれに応えないと
 いけないよ」
「じゃあ、明日から、『骨董屋』を読むことにします」
「いやいや、『失われた時を求めて』全10巻を読み終えてからでいいよ。でもいつか全作品の台本を完成させてくれたまえ」
「わかりました」
「じゃあ、ぼくは失礼するよ。今度、会う時には、『こんにちは、ディケンズ先生』についてのうれしい便りを君から聞けるといいが」
そう言って、先生は喫茶店を出て行かれたが、外は朝の眩しい日差しであふれていた。