プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生276」

小川は深美が指導する特訓を楽しんで受けていたが、ある日突然、大川が音大のレッスン室にやって来た。
「やあ、小川さん、お久しぶりです。どうです、順調に行ってますか」
「えーっ、大川さん、あなたは名古屋...いや、東京に用事があって来ておられるのですね」
「そうです。でも小川さんがどうしているか気になって立ち寄ってみました。それと...」
「他にも何かあるのですか」
「いやー、こんな無理なお願いを聞いていただけるはずはないですよね」
「お願い...ですか。僕に」
「ええ、小川さんにです」
「水臭いじゃないですか、ぼくたちふたりのあいだで」
「ふふふ、そのとおりだわ。大川さん、遠慮しないで、お父さんに言ったら」
「わかりました。では...実は、私は音楽の編曲の仕事を主にしてきましたが、今度、オペラを
 作曲してみたいと思っているんですよ、ははは」
「オペラ...ですか。うーん、何かひっかかるものが...」
「お父さん、どうしたの。不都合なことがあるの。大川さん、今すぐに台本がほしいっていう
 わけじゃないでしょ」
「もちろんですよ。そう、3年後くらいかな。それより私の希望を受け入れられるかどうかが問題です」
「ど、どんなです」
「私は小川さんの影響を受けて、今ではすっかりディケンズ・ファンになったのですが、中でも
 『大いなる遺産』という小説は...」
「そ、それをオペラにしようと考えておられるのですか。そう言えば、ディケンズ先生がいつか言ってたな」
「ええ、今、私の創作意欲も湧き出る泉のようになっていますので、よい作品ができるのではないかと。
 まず、日本語で小川さんに台本を作ってもらって、うまくいけば、知り合いのイギリス人に英語に
 翻訳してもらおうと考えています。もちろんすべての場面が盛り込めればよいのですが、難しい
 でしょう。後半の6つくらいの印象的な場面をまず選んで、次に配役、内容を決めて行くという
 段取りでいかがでしょうか 」
「それで、いつまでに台本を作ればよいのですか」
「いえいえ、まずはどの場面を選んで、どういった内容にするか。まあラフスケッチのようなものを
 出してもらえば、いいですよ。もちろん、われわれの演奏をアユミの前で、披露した後でで結構です。
 そうだなー。今から、1年半後くらいでいいですよ」
「なら、オーケーです。お受けしましょう」
大川が、ありがとうございますと言って小川の右手を両手で握り上下に動かしていると、秋子がレッスン室に
入って来た。
「大川さん、うまくいったようですね。わたしも楽しみにしています」
「秋子さん...。そうか、みんなが期待しているんだったら、いいとこみせなきゃいけないな、ねえ、深美」
「そうよ、みんな楽しみにしているんだから」