プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生277」
大川からオペラの台本の作成依頼を受けた日の夜、小川は早くに夕食を済ますと書斎に籠り、
机の上に白紙のA4のコピー用紙を広げた。
<ぼくは日誌をつけないから、行き当たりばったりの人生を生きて来たのかもしれない。でもぼくなりに
頑張って、周囲の期待に添えるようにして来たつもりだ。家族と会社は生きて行く糧なんだから、
これからも大切にして行かなくてはならない。そしてディケンズ先生も。他方、ぼくには大切にして
行かなくてはならない 友人がいる。大川さん、相川さん、アユミさん、ベンジャミンさん、
みんな大切な友人だ。ぼくは今、彼らから
ひとつずつ宿題をもらっている。大川さんからはオペラの
台本を、相川さんからは長編小説を、アユミさんからは「ケーゲルシュタット・トリオ」の演奏を
そしてベンジャミンさんからはアユミさんとの共演を。40代後半になると人間の身体に金属疲労
のようなものが起きて生活が制限される場合が多いのだけれど、
家族のおかげでなんら不満のない生活を
送っている。こんなことをいうのは烏滸がましいことだが、ぼくが書いた小説や大川さんと一緒に
作ったオペラが世間に認められて、多くの人の励ましになれば自分を育ててくれたみんなへ
感謝の気持を届けることになるのではないかと思う。なにより秋子さんのために...。
この白紙の紙を4人の友人から頼まれたことの覚書にして、必要なことを書いてパンチで閉じておこう。
そうだなー、ここには、大川さんから歌劇「大いなる遺産」の台本を依頼される。期限は1年半。
そうして無事解決したら、箱に入れて保管することにしよう。たくさん溜まるといいな。
あーーーっ、ほっとすると、眠たくなって来た>
夢の世界に小川がやって来ると、ディケンズ先生が遠くから歩いて来るのが見えた。一緒にだれか
いるようだったが、その正体は霧の中で、霞んではっきり見えなかった。
「先生、そちらにおられる方はどなたですか」
「今度、君が私の小説をオペラにしてくれるわけだが、そのヒントをひとつ授けようと思ってね」
「そうですか。台本を書く上で何か重要なことを教えていただけるのですね」
「そうだ。それでちょっとこの人に来てもらったんだ。見ていなさい。じきに霧が晴れるから」
「おおー、アユミさんじゃないですか。なぜ、あなたが夢の世界に...」
「まあまあ、話がややこしくなるから、簡単に言うが、実在している人物との会話は夢の中では御法度になって
いるんだ。だからわれわれの会話には加わらず、そこのベンチに腰掛けていてもらおう」
「あっ、ほんとだ先生が言われた通りにベンチに行って腰掛けられた。ところでどうしてアユミさんを...」
「創作をして行く上でモデルというのは大切なんだ。ある人のことを頭に描きながら人物を描写すると
リアリティが出て来る。ここにいるアユミさんをモデルにして台本の中の人物を描くと面白いと思うんだ」
「?????」
「実は君が相川に送っている小説をずっと読ませてもらっているが、主人公の少年と正直人の人物描写が
物足りないと思っていた。今度はオペラの台本を作るわけだが、やはり際立った人物が少しは登場しないと
視覚や情緒に訴える舞台での芸術は盛り上がらないだろう。そこでこの人をモデルにして...」
「で、だ、誰がよろしいのでしょうか」
「最終的な判断は君に任すが、「大いなる遺産」には3人の個性ある女性が登場する。ジョーの奥さんで
ピップを育てたおばさん、マライアか、エステラの育ての親、ミス・ハヴィシャムか、ヒロインのエステラか、
他にも後にジョーと結婚するビディがいるが」
「先生、ぼくはミス・ハヴィシャムは高齢過ぎて、アユミさんには無理かと思います。そうなると...」
「小川君、君はアユミさんにマライアかハヴィシャムをさせようというのか。それは明らかに間違っている。
アユミさんをモデルとして
エステラを描くんだ」
「......」