プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生278」

ディケンズ先生から小説のヒントを与えてもらった次の日、小川はどうしてもある曲が聞きたくなり、
名曲喫茶ヴィオロンを訪れた。
<確か、ブラームスは60才の頃になるとめっきり創作意欲が衰えたが、クラリネット奏者の
 ミュールフェルトのクラリネットの音色に魅せられ、クラリネット三重奏曲、クラリネット五重奏曲、
 2曲のクラリネット・ソナタを作曲したのだった。言わば、ミュールフェルトのクラリネットのやさしい
 音色がブラームスの創作意欲をかき立てたのだと言える。少し違うかもしれないが、アユミさんの
 一挙手一投足がぼくの創作意欲をかき立ててくれる可能性は皆無とは言えないかもしれない。でも
 その前にアユミさんと仲直りしないと...。あっ、秋子さん>

秋子は小川の向かいの席に腰掛けると、微笑んで話し掛けた。
「やっぱり、ここに来てたのね。あっ、この曲をリクエストしたの。ライスターとオピッツのレコードね」
「さすが、自分が演奏する楽器の演奏家については詳しいね。それにしても、いい演奏だな」
「小川さん、この前、大川さんから台本を書いてほしいと言われていたけど...」
「まだまだ先のことだから、先に解決しなければならない問題を解決してからと思うんだ。だから
 アユミさんの前で「ケーゲルシュタット・トリオ」を演奏してからと思っている」
「でもまさかそれが終わるまで、まったく手掛けないということはないでしょう」
「でもひとつひとつきちんとやっていくということも大切じゃないかな」
「ふふふ、もちろんきちんと仕上げるのも大切だけれど、いくつかのことを平行してやって行くと
 お互いが影響し合って、ただ一つの作品を仕上げるのとは違った、思いがけない効果を生むことが
 あるのよ」
「よくわからないなあ。例えば、相川さんからの宿題である長編小説、大川さんからの宿題であるオペラ、
 アユミさんからの宿題である室内楽演奏この3つが相互に関連があるというのかな」
「そうね、イメージとしては、小説だけだと1本の糸に過ぎないけど、小説、台本、音楽の3本の太い縄の
 ようなものが編み合わされると、途切れることなく一生の間創作の泉を尽きさせないような。私、小川さんに
 勧められて、ガイリンガーが書いた『ブラームス』を読んだけど、ブラームスは多くの友人の援助を得て、
 すばらしい作品を送り出した作曲家だと思うの。孤独にひとり机に座って黙々と小説を書いているだけでは、
 いつかは行き詰まってしまう。たくさんの友人を作って並行して協力して同時にいくつかの作品を作って行く
  ことは、もちろん作品を充実させる大きな力になる。それからひとりぼっちで頑張るよりずっと...」
「それにぼくには大きな力になってくれる家族がいるし」
「そう言ってくれると本当にうれしいわ。帰ってから、深美に言っとくわ。ところでさっきの話に戻るけど」
「みんなが協力してくれるから、できるだけ早く、歌劇「大いなる遺産」の台本を作り始めたらということ?」
「ええ」
「そのことなら、さっそくディケンズ先生からご指導をいただいている」
「どんなこと」
「アユミさんをイメージして、エステラを描けと言われるんだ」
「まあ、面白い」