プチ小説「耳に馴染んだ懐かしい音」
「もしかしたら、森下さんじゃないですか」
「まあ、二郎君。何年ぶりかしら、あなたはどうしているの」
「少し入るまで時間がかかったのですが、大学生になりました。今、22才です」
「おばさんは今年で50才よ。おかあさん、おとうさんは元気にされているの。木造官舎は4年前に立ち退きになったって聞いたけど...」
「そうです。今は近くに作られたアパートに住んでいます」
二郎は、森下さんのおばちゃんが肩から下げている大きな鞄が気になったので、尋ねてみた。
「ああ、この中にはクラリネットと楽譜と譜面台が入っているのよ。せっかく買ったクラリネットだから、何とか上手になりたいと
思っていたんだけど、最近になって時間とお金ができて音楽教室に通えるようになったのよ。蛇使いが鳴らすような音しか出なかったのが、先生の指導で、ロンドンデリーエアが吹けるくらいになったのよ。でもまだまだこれからだわ」
「おばさんは、ずっとクラリネットを練習していたんですか」
「そんなことはないのよ。娘の正代が結婚して、少し時間ができたの。押し入れを片付けていたら、官舎にいる時に購入したクラリネットが
出て来たの。このクラリネットにはあの頃の思い出が一杯詰まっているのよ。少しほろ苦いけどね。正代にクラリネットを見せたら、先生に習ったらと言うので、今年の4月から京都の音楽教室に通い始めたのよ」
「ぼくもしばらく京都の大学に通うのでまたお会いするかもしれませんね」
「そうね、次回会う時までにはうんと巧くなって、あなたを驚かせるかもしれないわよ」
「期待しています。でも耳に馴染んだあのクラリネットの音もなんだか懐かしい気がするので、聞きたい気もするのですが...フフフ」
おばさんは昔よく二郎に言っていたように
「そんな正直なことを言うと、おかあさんに褒められるわよ」
と言って笑った。