プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生280」

小川は、いつもの喫茶店に来ていた。相川が書いた小説を読んで何度も笑いそうになったが、必死で堪えた。
「それにしても、相川さんの小説は面白い。石山、俊子、俊子のお母さんが生き生きと描かれている。
 状況が逼迫していることが緊張感を生み出し、会話に臨場感を与えているのだろう。僕の小説の場合、
 そういった緊迫感がないから、ディケンズ先生が、モデルを描きながら、登場人物の描写をしなさい
 と言われるのだろう。でも、今から僕の小説のふたりの登場人物に誰かを当てはめるのはやめておこう。
 今の僕にはちょっと無理かなと思うから。先生が言われるように、歌劇「大いなる遺産」のエステラは
  アユミさんをモデルにするけど ...。おや」
何人かの男性が話しながら店内に入って来たので、小川はそちらに目をやり耳を傾けた。その中に以前
ディケンズの話をしていたスキンヘッドのタクシー運転手がいた。
「きみたち、久しぶりに聴衆の頭数が揃ったから、ディケンズの小説の講義を始めようと思うんやが...」
「ほんま、われわれがこうして揃うんも久しぶりやなあ。でもな、みんなそれぞれ話題もあることやし...。
 ところであんた明日は何買うん」
「きみたち、「光陰矢の如し」というやろ、人の一生は短いんや。短い人生やったら、後で後悔せんような
  もんにせんとあかんのとちゃう」
「ほら、あんたの言うとおりやが、人が大切にしとるのは何も教養とは限らんやろ、ギャンブルや酒が
 なによりも好きやという人はわしのまわりにぎょうさんおるで」
「ちゃうちゃう、そらちゃうよー」
「何がちゃうねん。わしが言うとること間違ってるちゅーんやったら、あんたがちゃんと説明しなさい」
「わしは、たまにはディケンズの小説のことに興味を持ってちょうだいちゅーとるんや。研究者の先生みたいに
 毎日、ディケンズ、ディケンズって言わんでええから、たまには思い出してねちゅーとるんや」
「それでたまに講義をするちゅーわけか」
「そうや。こうしてみんながそろったから、わしの話を聞いたってちゅーわけや」
「ははは、そうか、それもそうやな。みんなが集まる貴重な時間はたまには文豪の話もええかもしれんな」
「そうや、人さんの持ってる時間はほんま限られとる。人から話を聞いてそれがためになりそうやったら、
 耳を傾けるもんや。そうしたら、あんた、まったく新しい世界が広がるかもしれへんよ」
「ちょっと大げさやと思うけど、あんたが言いたいことはようわかった。ここで聞くのはもったいないから、
 会社の休憩室で聞くことにしようや」
「もちろんええよー。いこいこ」
そう言って、スキンヘッドのタクシー運転手が大手を振って店を出て行くと、その後に同僚が数名続いた。
彼らが出て行くと、小川はまわりに誰もいないことをいいことに歌劇の主人公が眼前に人がいるように
語りかける、あの感じで語りかけた。
「ディケンズ先生のことを知る人は限られている。でもその小説のすばらしさを一度知ったら、その虜となる
 人は多いだろう。あの人がああして同僚の人に講義をするように、ぼくは歌劇でディケンズ先生のよさを
 みんなに知らしめるんだ。あとは、相川さんへの返事を書いてから自宅に帰って考えよう!」