プチ小説「こんにちは、N先生5」
私は一ヶ月余りを要して、ようやく『失われた時を求めて』第1篇『スワン家のほうへ』を読み終えました。
メタファー(暗喩)がそこここに見られストーリーの展開が遅いので、読みづらい小説だなと思いました
(これは私の理解力が不足しているからですが)。また472から474ページに作者は落語のオチのようなものを
書いているのですが、この第2部「スワンの恋」の主人公スワンが夢中になる女性オデットの逢い引きの相手が
ヴェルデュラン夫人であったというのは、当時流行していた耽美主義の影響を受けているのかなと思いました。
海野弘著『プルーストの部屋』やユリイカ臨時増刊の『総特集プルースト』を参照にしたので、少しはストーリーが
わかった気がしました。最後のページを閉じて、今日は少し早いけど仕事場に行こうと思って腰を上げると、
N先生が入口のドアを開けて喫茶店の中に入って来られたのでした。N先生は前の時と同様に私の向かいの席に腰掛けられ、
にこやかに話し掛けられました。
「もうすぐ読み終えるだろうと思って、これを持って来てあげたんだ」
N先生は、いつものように自分の鞄の中から一冊の本を取り出されました。それは、『失われた時を求めて』
第2篇『花咲く女たちのかげに1』(ちくま文庫)でした。私は、『失われた時を求めて』全10巻(筑摩書房)
を神田の古書店で購入していたので、N先生に感謝の気持だけを伝えました。
「そうか、君の決心は固いんだ」
そう言いながら、もう一度鞄の中を弄り、ディケンズの『骨董屋』北川悌二訳(三笠書房)を取り出されました。
「ところで、この本はいつから読むのかな」
私は前回この喫茶店でN先生と話をした時に『骨董屋』を読むのは『失われた時を求めて』全10巻を読み終えて
からでいいよと言われたと記憶していたので、私は気が動転しました。そのことをN先生に言ってみますと、
N先生は言われました。
「そりゃー、君、日々の局面は往々にして変化して行くんだから、君は人からの忠言を大切にして、それを
推進力にしてあるいは人生の糧にして、サーファーのように乗り切って行かなきゃ」
N先生は続けられました。
「この前、君はなじみの古書店で言われただろ。何も『失われた時を求めて』を一気に最後まで読み終える
必要はない。読みたいと思った時に少しずつ読めばいいと」
私はN先生にその話をした記憶がなかったのですが、前回よく言われたように、そりゃー、君、世の中には
不思議なことはよくあるんだからと躱されそうだったので、言わずに置きました。
「私は、『失われた時を求めて』を全部読んでから、ディケンズの著作に戻ればいいと言ったが、それは
君が月に2冊くらい読むと思っていたからなんだ。
私の友人で違った小説を10冊同時に読んでいる人がいて、
そこまでやれとは言わないけど、君なら長年本を読んでいるし、2冊同時に読むくらいはお茶の子さいさいだろう」
私はN先生が右の目尻の前に『骨董屋』を、左の目尻の前に『失われた時を求めて』第2篇『花咲く女たちのかげに1』
を置かれたので、その間にN先生と私のコーヒカップが置かれていました、一瞬いっそのこと同時に読めば
いいじゃないかと思いましたが、脳がひとつであることに気付き思い直しました。
「先生、でも、ぼくは、感動というのはひとつの小説にのめり込んだ副産物として生まれるように思うのです。
あっちを少し、こっちを少しという感じで読んでいると、最終的に筋がわかったということになっても、決して
感動は伴わないと思うんです。そういうことなのでこちらの方はしばらくお預けにします。風光書房の店主が
言われたように、こちらはいつでもいいことですから
」
私がそう言って文庫本の方を指差すと、N先生は突然、沈黙されました。しばらく沈黙した後、先生はにっこり笑われました。
「確かに、君が言うとおりだよ。君は、馬鹿がつくくらい正直でまじめすぎる人間だ。でも、時には忠言を聞き入れても
いいんじゃないかな」
N先生は、文庫本は手軽にいつでも読めるから便利だよと言われ、第2篇『花咲く女たちのかげに1』(筑摩文庫)
を置いて帰られました。